滅亡の危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:03 UTC 版)
しかし7月に宍倉城が、8月には戸崎城が義重によって奪われた。氏治は、防御の弱い藤沢城から土浦城に移って佐竹勢に備えた。この時、主命に従わなかった土浦城主・信田和泉守を誅殺している。9月、小田方の藤沢・土浦両城は佐竹勢の攻撃を受ける。藤沢城には太田資正・梶原景国父子が、土浦城には北条治高と真壁久幹が押し寄せた。両城の城兵は城から打って出てこれを破った。氏治はこの両度の勝利に悦び、小田城奪回を目指した。小田勢は君島川の戦いで佐竹勢を破り、小田城・北条城に迫ったが、佐竹の援軍が駆けつけたため小田城奪回はならなかった。11月、佐竹方は逆襲に転じ、太田資正・梶原景国・北条治高・真壁氏幹ら2千余の佐竹勢が押し寄せ、藤沢城は落城した。 小田城に続いて藤沢城も落城すると、佐竹勢の次の標的は土浦城となった。土浦城はその頃、北は馬も踏み込めぬ沼地で、西には大川(現桜川)があり、南は海(霞ヶ浦)という攻め難い要害であった『東源軍記』。天正元年(1573年、元亀4年)12月、佐竹勢は土浦城へ殺到し大手には額田・梶原が、搦め手には北条・真壁が攻撃した。しかし小田勢が奮戦したため、佐竹勢は攻めあぐんで遠巻きに城を囲んだ。明けて天正2年(1574年)1月、佐竹義重は車斯忠(車丹波守)を大将とする後詰を派遣した。氏治の嫡子・守治は大手門を開いて兵3百を従え敵陣に切り込むなど勇ましく戦った。しかし兵力差が大きいため劣勢を挽回するのは難しく、降参する小田兵が増えた。2月、氏治は夜ひそかに脱出し、土浦城はついに落城した。
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