宇都宮氏滅亡の危機
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天文18年(1549年)、父・尚綱が喜連川五月女坂の戦いで敗死すると、宿老・壬生綱房が野心を剥き出しにし、宇都宮城を乗っ取ってしまう。綱房は芳賀高経の子芳賀高照を傀儡として利用するために当主として迎え入れ、塩谷氏などの宇都宮重臣らを従え、広綱に敵対する。そして下野各地を侵攻し、統一に乗り出す。大永の内訌から始まった宇都宮氏の衰退はピークを迎え、滅亡の危機に晒された。 当時、広綱は5歳という幼少であったため、家臣の芳賀高定に守られて宇都宮城を落ち延び、真岡城にて高定の補佐を受けて育つ。2年後の天文20年(1551年)、芳賀高定が謀略を駆使して父の仇である那須高資を殺害。弘治元年(1555年)には、高定が反抗的な家臣芳賀高照を真岡城へ誘い出して暗殺。さらに同年、宇都宮城を占領していた壬生綱房が急死したが、綱房の嫡子の壬生綱雄が新たに宇都宮城主になっている。この間も壬生氏による激しい侵攻が続いており、祖母井城、八ツ木城などが落とされている。その後、高定の尽力によって勢力を徐々に盛り返し、外交手腕によって北条氏康を味方につけ、弘治3年(1557年)、氏康の命で広綱・高定を支援するために佐竹義昭が5000騎の兵を連れて下野に出陣し、飛山城に在陣したという。芳賀高定の尽力によって宇都宮城は広綱の手に戻り、滅亡を回避することができた。 永禄元年(1558年)には越後上杉勢が下野に侵攻してきたが、家臣の多功長朝の奮闘によって撃退に成功している。
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