宇都宮氏滅亡の危機とは? わかりやすく解説

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宇都宮氏滅亡の危機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/17 23:39 UTC 版)

宇都宮広綱」の記事における「宇都宮氏滅亡の危機」の解説

天文18年1549年)、父・尚綱が喜連川五月女坂の戦い敗死すると、宿老壬生綱房野心剥き出しにし、宇都宮城乗っ取ってしまう。綱房は芳賀高経の子芳賀高照傀儡として利用するために当主として迎え入れ塩谷氏などの宇都宮重臣らを従え、広綱に敵対する。そして下野各地侵攻し統一乗り出す大永の内訌から始まった宇都宮氏の衰退ピーク迎え滅亡の危機晒された。 当時、広綱は5歳という幼少であったため、家臣芳賀高定守られ宇都宮城落ち延び真岡城にて高定補佐受けて育つ。2年後天文20年1551年)、芳賀高定謀略駆使して父の仇である那須高資殺害弘治元年1555年)には、高定反抗的な家臣芳賀高照真岡城誘い出し暗殺。さらに同年宇都宮城占領していた壬生綱房急死したが、綱房の嫡子壬生綱雄新たに宇都宮城になっているこの間壬生氏による激し侵攻続いており、祖母井城、八ツ木城などが落とされている。その後高定尽力によって勢力徐々に盛り返し外交手腕によって北条氏康味方につけ、弘治3年1557年)、氏康の命で広綱・高定支援するために佐竹義昭5000騎の兵を連れて下野出陣し飛山城に在陣したという。芳賀高定尽力によって宇都宮城は広綱の手戻り滅亡回避することができた。 永禄元年1558年)には越後上杉勢下野侵攻してきたが、家臣多功長朝奮闘によって撃退成功している。

※この「宇都宮氏滅亡の危機」の解説は、「宇都宮広綱」の解説の一部です。
「宇都宮氏滅亡の危機」を含む「宇都宮広綱」の記事については、「宇都宮広綱」の概要を参照ください。

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