宇都宮町への県庁移転の経緯
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「栃木県庁の移転」の記事における「宇都宮町への県庁移転の経緯」の解説
1879年(明治12年)からは栃木町の県庁で県議会が開かれたが、この頃からその立地に対する不満が現れたとされる。1880年(明治13年)10月には鍋島に代わって第2代県令・藤川為親が着任した。『栃木県議会史』は次のように記す。 明治十二年に県会が開かれ、議員は勿論、県庁出入の人が多くなると遠くの人達から見ると栃木町は不便さを感ずるようになり、また県の創始者鍋島県令が去ると栃木町に県庁がある不便さを公然と口にするようになった 1882年(明治15年)4月、宇都宮町の小学東校および西校のそれぞれの結社町村連合会の席上で、永井貫一が県庁移転の趣意書を示し、出席者60余名の賛同を得た。公的な場で宇都宮への県庁移転が論じられたのはこれが初めとされる。同年7月、藤川が宇都宮を訪ねた際にも、河内郡長の川村伝蔵をはじめとして町の有力者が藤川に県庁移転の意志を伝え、同月19日、全町総代ほか有志120余名が清水町清巌寺にて会合を開き、役職の分担を決定して移転運動が発足した。宇都宮からの主たる面々は永井、鈴木久右衛門、中山丹治郎らで、塩谷郡からは矢板武も出席した。8月、那須・塩谷・芳賀・河内・上都賀の県北5郡の有志を西校に集め、移庁請願規約を採択したが、これは概ね次のような内容を含んでいた。 第一条:栃木県庁を宇都宮に移転するの請願をなすこと。但し主旨別紙請願草案の通。第二条:移転費額は宇都宮町村に於て悉皆負担すること。第三条:五郡有志総代は下都賀郡以西の各郡に其賛成者を得る手続をなすこと。第四条:請願委員は毎郡宇都宮町共各自一名を出すこと。第五条:各郡に総代を設置すると云ふこと。 12月7日、川村らが内務省に県庁移転の請願を行った。この直前に動きを察知した栃木町の有志も、移転に反対すべく1,280名の署名押印を集め、8日に提出した。このときは両者とも請願規則の適用に関して不備があるとして却下された。翌1883年(明治16年)6月には上都賀郡鹿沼宿の戸長・三品宗八ら41名の連署で、移転反対の建白が元老院議長の佐野常民へ提出された。栃木新聞(現・下野新聞)は「移転論に関する諸事項を県民に公開せよ」「移転論を県会へ諮問せよ」とする記事を掲載し、反対する論調であった。藤川は世論の動向をうかがい、決断を下さなかった。 10月に藤川は転任となり、第3代県令に三島通庸(福島県令兼任)が着任した。この際、川村は三島にも県庁移転を打診し、前向きな返答を得たという。これを契機として、宇都宮町では11月に2通、12月には5通の請願書・上申書を三島に提出し、河内郡長の川村は上都賀・塩谷の両郡長と共に上京して内務省に建白を行った。宇都宮 1992では、この際栃木町民や栃木新聞は前年と異なり「後手後手に回っていた」と評されている。栃木町でも12月中に少なくとも4通の建言書類を三島や佐野へ提出して反対しており、中でも8日付の請願書は町内のすべての戸主が連署した大掛かりなものだったが、同年11月29日の時点で三島はすでに政府から県庁移転の許可を得たとする諭告を発していた。栃木新聞は次のように報じた。 既にして県令・郡長等斡旋の効空しからず遂に政府の容るる所となり〈中略〉幾ばくならずして、県令・委員を召し、諭告して曰く、移転の事正に政府の容るる所となるを以て之が資金三万五千円を要す。今日より去って募集に尽力せよ云々 県庁移転の成功は、三島の機敏な運動と周到な根回し、そして川村ら宇都宮の豪商たちによる資金面のバックアップによるところが大きいと評価されている。翌1884年(明治17年)1月21日付で、県庁移転が太政官から布告された。24日には県名を「宇都宮県」へ改める旨が県から誤って布告されたが、29日に取り消された。4月8日には新庁舎建設地の地鎮祭が挙行され、3千人が招待されて盛況を極めたが、移転が県民の総意のもとに決定されたものではないと主張する県会議員田中正造は丘の上から会場を見下ろして罵声を浴びせたという。
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