宇都宮空襲に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 15:01 UTC 版)
明治期から昭和前期にかけて、宇都宮には日露戦争後の軍需拡大によって編成された陸軍第14師団司令部が常設され、その隷下の歩兵第27旅団司令部をはじめ歩兵第59連隊や野砲兵第20連隊、輜重兵第14連隊、騎兵第18連隊などが駐留、これに所属する10,000名を超える軍関係者が常時駐屯した。この軍関係者を顧客とする様々なサービス産業が活況を呈し、バンバと呼ばれた旧・馬場町周辺、現在のオリオン通りを中心とする市街地が発展した。また一方で軍需産業の中島飛行機や関東工業などの誘致にも成功し、軍需に沸く宇都宮は軍都と呼ばれるようになった。 太平洋戦争の末期になると、日本本土の制空権を奪った米軍は、攻撃目標を日本軍施設や軍需工場として長距離爆撃機による空襲を開始、宇都宮師管区の管轄区域にあった北関東の諸都市(太田市や大泉町など)の軍需工場も標的となり、その生産機能は徐々に奪われていった。また一方で、日本の中枢都市や西日本の軍都への空襲も展開し、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲に代表される大規模な空対地攻撃が行われた。それでも本土決戦の方針を崩さない日本軍に対し、米軍は日本国民の日常生活を奪ってその戦意を喪失させるべく、攻撃目標を徐々に中小都市の中心市街地にまで拡大した。この頃には日本近海の制海権もほぼ米軍が掌握するところとなり、日本本土のあらゆる都市が米軍空母艦載機や占領された日本近海の離島から飛来する機体による銃爆撃に曝され、軍都・宇都宮も同年7月以降、7月12日深夜のB-29重爆撃機による大空襲をはじめ、硫黄島からB-29の直掩機として飛来する米国陸軍戦闘機P-51等による急襲を受けることとなった。
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