宇都宮移転後(1710-1868)
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「英巌寺」の記事における「宇都宮移転後(1710-1868)」の解説
宝永7年(1710年)、忠真の宇都宮への転封に伴い、英巌寺も越後高田から宇都宮に移された。宇都宮の英巌寺の境内は数千坪に渡る広大なもので、現代の花房本町2番街区全域と、西に隣接する国道119号(東京街道)、花房二丁目2番街区まで広がっていた。山門は東向きに立ち、敷地には位牌堂や僧堂などの堂宇が建ち並んでいた。英巌寺は位牌を安置して供養する寺とされたため、墓地を持たず、英巌寺で葬儀を執り行った藩主は江戸・牛込(現・東京都新宿区神楽坂)の松源寺の墓地に埋葬し、主要藩士は各々の所属する宇都宮城下の寺院に埋葬した。寛延2年(1749年)、戸田忠盈は松平忠祇と入れ替わりで肥前国島原への転封を命じられ、英巌寺も一旦は島原へ移った。宇都宮に残された堂宇は、島原から所替えされた深溝松平家の菩提寺である本光寺として利用された。 安永3年(1774年)、深溝松平家と戸田氏は再び宇都宮と島原を入れ替えることになり、英巌寺は元の場所に復帰した。以来、幕末まで寺領が与えられ、守り継がれた。江戸時代後期の儒学者・蒲生君平は、英巌寺の住職・節山和尚と姻戚関係にあり、仏教排撃をめぐって激論を交わした後、和尚に詫び状を送った。この詫び状は、君平の姉が森田伊右衛門に宛てた書状とともに、「紙本墨書掛軸(蒲生君平等)」の名称で、宇都宮市有形文化財に指定されている(1964年〔昭和39年〕5月28日指定)。
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