宇都宮移転後とは? わかりやすく解説

宇都宮移転後(1710-1868)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 05:13 UTC 版)

英巌寺」の記事における「宇都宮移転後(1710-1868)」の解説

宝永7年1710年)、忠真の宇都宮への転封に伴い英巌寺越後高田から宇都宮移された。宇都宮英巌寺境内数千坪に渡る広大なもので、現代花房本町2番街全域と、西に隣接する国道119号東京街道)、花房二丁目2番街区まで広がっていた。山門東向きに立ち、敷地には位牌堂僧堂などの堂宇建ち並んでいた。英巌寺位牌安置して供養する寺とされたため、墓地持たず英巌寺葬儀執り行った藩主江戸牛込現・東京都新宿区神楽坂)の松源寺墓地埋葬し、主要藩士各々所属する宇都宮城下寺院埋葬した寛延2年1749年)、戸田忠盈松平忠祇入れ替わり肥前国島原への転封命じられ英巌寺も一旦は島原移った宇都宮残され堂宇は、島原から所替えされた深溝松平家菩提寺である本光寺として利用された。 安永3年1774年)、深溝松平家戸田氏は再び宇都宮島原入れ替えることになり、英巌寺は元の場所に復帰した以来幕末まで寺領与えられ守り継がれた。江戸時代後期儒学者蒲生君平は、英巌寺住職・節山和尚姻戚関係にあり、仏教排撃めぐって激論交わした後、和尚詫び状送った。この詫び状は、君平の姉が森田伊右衛門宛てた書状とともに、「紙本墨書掛軸蒲生君平等)」の名称で、宇都宮市有形文化財指定されている(1964年昭和39年5月28日指定)。

※この「宇都宮移転後(1710-1868)」の解説は、「英巌寺」の解説の一部です。
「宇都宮移転後(1710-1868)」を含む「英巌寺」の記事については、「英巌寺」の概要を参照ください。

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