宇都宮競輪場の移転計画(1991-2000)
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1991年(平成3年)4月22日、宇都宮市長の増山道保は宇都宮競輪場の郊外移転を表明した。市中心部に位置する競輪場は周辺道路の渋滞の原因になっており、移転後の跡地は副都心としての活用が可能と目されていた。翌1992年(平成4年)6月17日には、新しい競輪場をグリーンドーム前橋のような競輪以外にも多目的に利用できる施設にしたいと増山は表明した。1993年(平成5年)8月17日、市は宇都宮市営競輪場移転計画審議会に移転先や施設内容を諮問し、1994年(平成6年)3月28日に審議会は、競輪場を大規模公園の1施設とすることや、公園の規模を30 ha とすることを盛り込んだ中間答申を取りまとめた。1996年(平成8年)1月26日、市は瑞穂野地区に、競輪以外に陸上競技やサッカーも開催できるメーンスタジアム、コンベンションやイベントなどが開催できるドーム型多目的施設、サブグラウンドなどを備えた、仮称「南部総合運動公園」を約260億円かけて整備する計画を発表した。同時に、2000年(平成12年)の全国都市緑化フェアの栃木県開催が内定したことから、その会場として利用することも公表した。移転候補地となった瑞穂野地区では、地域活性化になるとして賛同する地権者が多かった一方、1997年(平成9年)5月8日に競輪場建設に反対する会を立ち上げ、反対運動をする人もいた。 こうした中、市は1997年(平成9年)1月17日に宇都宮市都市計画公園として「宇都宮市総合運動公園」の計画を決定し、横浜オリンピック構想ではバレーボール競技の会場の1つとして名前が挙がったが、同年8月12日に、総合運動公園の建設計画凍結を含む財政構造改革推進計画を発表した。1998年(平成10年)12月10日、市は反対する会との間で、競輪場移転に関して住民の意向を尊重する代わりに、住民は全国都市緑化とちぎフェアに協力することで合意した。 1999年(平成11年)、宇都宮市長に就任した福田富一は、競輪場の現施設での事業継続を6月の宇都宮市議会で表明し、当面は移転計画の凍結を続けることとした。同年、総合運動公園としての行方が定まらないまま、全国都市緑化とちぎフェア(マロニエとちぎ緑花祭2000)の会場として着工し、9月議会で、競輪場の移転問題を含めて緑花祭終了以後に計画を見直すことが発表された。翌2000年(平成12年)9月初頭、福田は競輪場移転の中止を正式に決定した。同年9月9日にマロニエとちぎ緑花祭2000が開幕し、11月5日まで開かれた。
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