宇都宮氏当主の後見人となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 16:10 UTC 版)
「塩谷孝綱」の記事における「宇都宮氏当主の後見人となる」の解説
永正9年(1512年)3月9日、宇都宮の興禅寺に対して、「塩谷荘内塩原湯本の土貢」を寄進している。孝綱が発給した文書で現在最も古いとされているのがこの寄進状であり、2日前の3月7日には、宇都宮忠綱が興禅寺領中里郷の代がわり安堵を行っており、孝綱の場合も忠綱と同様に宇都宮氏惣領家の権威の巻き返しを狙う隠居した兄・宇都宮成綱の思惑によって塩谷氏の代がわりがされたことを指摘されている。宇都宮氏惣領の家督が成綱から忠綱に代わってから孝綱は兄・成綱から忠綱の後見人を任されており、宇都宮氏当主である忠綱の意思伝達などを行っていた。それ以降、宇都宮俊綱の代まで、孝綱は宇都宮氏の「宿老中」の筆頭の地位を保ち続けていた。 その後、永正17年(1514年)に高田専修寺の真智が下野国を訪問した際に、孝綱が実父・正綱の供養のために若宮郷簗内を寄進していることが知られている(法雲寺文書)。同地は、元々芳賀氏の大内荘に属していたとされており、宇都宮錯乱で芳賀氏が一時没落した後に、孝綱がその旧領の代官を務めていたことが知られている。
※この「宇都宮氏当主の後見人となる」の解説は、「塩谷孝綱」の解説の一部です。
「宇都宮氏当主の後見人となる」を含む「塩谷孝綱」の記事については、「塩谷孝綱」の概要を参照ください。
- 宇都宮氏当主の後見人となるのページへのリンク