宇都宮氏の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 05:26 UTC 版)
成綱の死後、嫡男である18代宇都宮忠綱は強硬な家臣団の支配強化などを行ったために家臣の叛乱を招くことになった。その結果、大永の内訌が勃発してしまい、宇都宮氏当主の権威は大きく失墜し、大きく弱体化することとなる。19代宇都宮興綱、20代宇都宮俊綱の頃は宇都宮氏当主は家臣団の傀儡となっていた。武茂氏や松野氏といった一門も佐竹氏に降伏して離反している。21代宇都宮広綱の時代には、父・宇都宮尚綱が喜連川五月女坂の戦いで那須氏に討ち取られると、宿老壬生綱房・壬生綱雄父子に宇都宮城を乗っ取られ、下克上されてしまう。この窮地を重臣芳賀高定が救い、1557年には北条氏康や佐竹義昭らの協力を得て宇都宮城を奪還することに成功している。その後は、上杉謙信や佐竹義重らとともに、古河府足利氏の弱体化に伴って関東に台頭した北条氏と対峙した。広綱は佐竹義昭の娘・南呂院を娶り、佐竹氏との関係を強化した。22代宇都宮国綱は防衛に向かない宇都宮城を家臣へ任せ、過激化する北条氏や壬生氏、那須氏、皆川氏の攻撃に耐えられるよう、多気山城を北関東最大規模の山城へと改修し、そこを新たな本拠とした。周囲から攻め込まれながらも宇都宮氏が生き延びることができたのは、篠井金山から得られた利益を背景として、防御のために城や武器を整えることができたからであるという説がある。
※この「宇都宮氏の衰退」の解説は、「宇都宮氏」の解説の一部です。
「宇都宮氏の衰退」を含む「宇都宮氏」の記事については、「宇都宮氏」の概要を参照ください。
- 宇都宮氏の衰退のページへのリンク