宇都宮氏の西下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 09:56 UTC 版)
「粟田関白道兼の末葉宇都宮左衛門尉朝綱の後胤なり。久憲三代の祖宇都宮藤原貞久、正中年間(1324年 - 1326年)、征西将軍営に供奉して肥後国に下り、久憲が時に当たりて渡辺党蒲池氏が婿となりその遺跡を領す」と『筑後志』が伝えているように、南朝方に属した、筑後宇都宮氏の宇都宮久憲が蒲池武久の娘を妻とした。 筑後宇都宮氏は、宇都宮貞久にはじまり、貞久は、藤原氏北家の藤原道兼の流れを汲む宇都宮氏の一族であり、宇都宮氏第8代の宇都宮貞綱の弟で筑後国山門郡瀬高の大木城を拠点とした宇都宮泰宗の次男の宇都宮貞泰の三男で、九州南朝の拠点の肥後国八代にいた。貞久の子であり久憲の父になる宇都宮懐久は筑後川の戦いで討死しており、また祖父の貞久なき後の南朝凋落期に久憲は筑後に土着すべく、蒲池氏の名跡と遺領を継ぎ蒲池久憲と名のった。 久憲にはじまる「藤原氏族宇都宮党の蒲池氏」は時代区分から「後蒲池」というが、筑後宇都宮氏でもある蒲池氏が、伊予宇都宮氏の同族とされたり、豊前宇都宮氏の分流とされるのは、伊予国から豊前国に移った宇都宮貞泰の足跡に関係していよう。
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