後蒲池(宇都宮党蒲池氏)
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「蒲池久憲」の記事における「後蒲池(宇都宮党蒲池氏)」の解説
久憲は、筑後国守護の大友氏の傘下に入り、 文中2年/応安6年(1373年)10月に大友親世と菊池武朝が肥後国で激突した際、久憲は田尻鑑安ら筑後の諸将と共に大友軍に属し竹井に陣を構えたが、戦いは菊池氏の勝利となった。戦いとは別に久憲は、嫡子の義久、曾祖父の宇都宮貞泰以来、近しい同族でもあった豊前宇都宮氏の嗣子となる城井則房、一族の大木氏を継ぐ大木資貞をもうけ、一族の門脈を筑後に広め、蒲池氏は筑後随一の大身となる。また久憲は応永年間に城郭を拡張して城下町を築いた(『三潴郡誌』)とされることから、久憲がのちの蒲池氏発展の基礎を作ったといえよう。 久憲以前の嵯峨源氏の蒲池氏を「前蒲池」といい、久憲以後の宇都宮氏の蒲池氏は「後蒲池」と言う。そして蒲池氏が筑後における最有力の大身となるのは、久憲以後の後蒲池の時代であり、蒲池氏は筑後に広く門脈を広め、分家、支族を多数持ち、筑後十五城の筆頭大名となる。
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