宇都宮氏から離反と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 16:10 UTC 版)
天文7年(1536年)12月2日に神宮寺慈心院で行われた能興行の際に従った時点で孝綱は宇都宮家中「宿老中」の首座の地位にいた。また、この頃には法名である天的を名乗っていた。 この時期の孝綱は、塩谷荘の他に宇都宮領最南端である小金井宿一帯(現栃木県下野市小金井)の支配も任されていた。他にも芳賀氏との関係も緊密であり、芳賀高孝は孝綱から「孝」の一字を拝領し、芳賀孝高に改名している。また、天文5年に出家し道的と法名を名乗った芳賀高経との関係も非常に緊密であり、両者は同じ僧侶と師壇関係を持ち、兄弟弟子の関係であったとされる。 天文8年 (1537年) に宇都宮氏で天文の内訌が発生すると孝綱は芳賀高経に与して宇都宮俊綱・壬生綱房・壬生綱雄と敵対する。孝綱が宇都宮氏惣領家と敵対した理由の1つには先ほどのような芳賀氏との緊密な関係を築いていた背景が影響していたという。高経が俊綱によって自害させられた後は、那須高資と連携して宇都宮氏に攻撃をしていたという。 天文15年(1546年)10月19日、77歳没。
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