宇都宮成綱の登場
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戦国時代初期には、第17代当主で、「奇蹟の武人」、「宇都宮氏の中興の祖」と呼ばれ、宇都宮氏の全盛期を築き上げた名将宇都宮成綱が現れた。正綱が陣没したために幼くして家督を相続する。家督相続後、その結果に不満を抱いて叛乱を起こした武茂氏を重臣芳賀高益・芳賀景高の力を借りて鎮圧し、古河公方足利成氏の支援を得て再臣従させる。小山持政が没して混乱している小山氏に対し、幼いながらも成綱はその好機を逃さずすぐさま小山領を攻め込んで勢力版図を拡大。優れた外交手腕を発揮し、古河公方足利成氏の二男で次期関東管領とされている上杉顕実の娘を自らの妻として娶り、さらに娘の瑞雲院を次期古河公方足利高基に嫁がせるなど古河公方家や関東管領上杉家との緊密な関係を築いた。その他にも上那須氏当主那須資親や小田氏当主小田成治から娘を妻として娶り、結城氏当主の結城政朝に自分の娘を嫁がせるなど味方を増やし、北関東での支配的地位を磐石なものとした。家臣団も再編し、有力一門の塩谷氏や武茂氏に兄弟を継がせるなど、宇都宮氏当主を頂点とする戦国期宇都宮家中を形成した。宇都宮氏に臣従した者には名前に「綱」の一字を与え、家臣たちとの結束力を高めようとした。 永正年間に古河公方家の争いが勃発すると、成綱を頼り宇都宮へ逃れてきた娘婿足利高基を庇護し、高基の古河公方擁立を企てた。高基派には上那須氏、小田氏、結城氏といった成綱との関係が深い勢力が多かった。しかし、筆頭重臣芳賀高勝が足利政氏の支持を表明し成綱と対立した。高勝は成綱を失脚させ、成綱の嫡子忠綱を当主に擁立しようとしたため、成綱は敢えてその策に嵌まり、忠綱に家督を譲り、隠居の身となった。成綱は忠綱に後見人として成綱の弟の塩谷孝綱を付け、忠綱が高勝の傀儡になることを防いだ。成綱は1512年に高勝を殺害すると宇都宮錯乱が勃発、2年かけて鎮圧した。その後は1514年に古河公方足利政氏派の佐竹義舜と岩城氏と下那須氏が2万騎以上の連合軍を率いて下野国へ攻め込んで来て、宇都宮の北東である竹林で両軍は衝突。結城政朝、足利高基らの援軍も駆けつけている。この合戦は政氏派と高基派による事実上の決戦であり、当時の北関東最大規模の合戦となった。合戦は宇都宮勢の勝利となった(竹林の戦い)。この合戦の勝利によって足利高基の古河公方就任は名実ともになり、成綱ら高基派による足利高基の古河公方擁立は成し遂げられた。その2年後の1516年に再び佐竹義舜と岩城氏の連合軍が下野国へ侵攻。成綱は病気で動けなかったため忠綱が成綱の名代で出陣し、連合軍に対して圧勝した。この合戦の勝利の背景には、成綱の策により、竹林の戦い後、那須氏を高基派へ引き入れることに成功したからである(縄釣の戦い)。成綱の代で宇都宮氏の勢力は安定化し、全盛期を迎えた。
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