宇都宮広綱の反北条連合復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 09:38 UTC 版)
「小川台合戦」の記事における「宇都宮広綱の反北条連合復帰」の解説
危機感を感じた晴朝は水谷勝俊を宇都宮広綱のもとに派遣し、朝勝を晴朝の養子に迎え、北条氏と断交し、反北条連合に復帰した。 氏政はこの動きに対抗するために天正6年(1587年)1月25日に氏政は伊達輝宗との交渉を開始し、2月23日には蘆名盛隆と佐竹挟撃を約し起請文を交換した。既に田村清顕とも盟約を成立させており、蘆名氏・田村氏と共闘して佐竹方侵攻を4月下旬を期日とした。 佐竹方も謙信への援軍を要請を続けており、天正6年2月10日付で関東進軍を承諾し、4月に出陣することを伝えてきた。ところが、謙信は3月13日、病没し関東遠征もとり止めとなった。
※この「宇都宮広綱の反北条連合復帰」の解説は、「小川台合戦」の解説の一部です。
「宇都宮広綱の反北条連合復帰」を含む「小川台合戦」の記事については、「小川台合戦」の概要を参照ください。
- 宇都宮広綱の反北条連合復帰のページへのリンク