宇都宮忠綱の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 16:07 UTC 版)
永正13年(1516年)、下野宇都宮氏の巨星・宇都宮成綱が病没すると情勢が大きく変化した。下野宇都宮氏18代当主宇都宮忠綱は父が没し名実ともに宇都宮氏当主となったが、強硬な支配強化に家臣団は反発。大永の内訌の内訌が勃発した。 忠綱に不満を持っていた芳賀高経・芳賀高孝・塩谷孝綱・笠間資綱らは宇都宮成綱時代は盟友であったが成綱没後は旧領奪還を狙い敵対関係になっていた結城政朝と結び忠綱と敵対していた。 大永3年(1523年)8月、結城政朝は宇都宮猿山に兵を進めた。盛高は宇都宮忠綱に従い、猿山で戦ったがその際に討死した(猿山合戦)。
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