宇都宮忠綱と家臣団の対立
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「大永の内訌 (下野宇都宮氏)」の記事における「宇都宮忠綱と家臣団の対立」の解説
永正9年(1512年)に父成綱の策で下野宇都宮氏18代当主となった宇都宮忠綱は、永正13年(1516年)に実権を握っていた父が病没したことで名実ともに当主となった。 忠綱は父の遺志を継ぎ、勢力の拡大や宇都宮家中の支配強化を行っていくが、偉大だった父のようにはうまくいかず、強硬な支配強化に家臣の多くが不満を抱き、忠綱と対立している。この対立は単純に支配強化を巡る対立だけでなく、宇都宮錯乱などで活躍した新興勢力の壬生綱重・綱房父子ら壬生氏の躍進に対しての不満や、宇都宮錯乱以後に宇都宮城で逼塞されたままである芳賀高孝、芳賀高経ら芳賀氏の処遇を巡った対立といった側面もあった。 芳賀領の統治は忠綱の叔父にあたる宿老の塩谷孝綱が代行していたが、こうした芳賀氏の扱いに塩谷氏の塩谷孝綱、笠間氏の笠間資綱・綱広父子などの宇都宮一門が反発し芳賀氏側に与して忠綱と対立している。一方、壬生綱房や永山忠好は忠綱に与して家臣団は二つに分裂してしまった。こうした「宇都宮・壬生氏対芳賀・塩谷氏」といった対立構図は天文の内訌でも再び起こっている。
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