宇都宮成綱との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 14:42 UTC 版)
「竹林の戦い」および「縄釣の戦い」も参照 永正11年(1514年)には足利政氏の命で、岩城由隆とともに2万の軍勢で下野を攻めた。下野の戦国大名宇都宮成綱による古河公方擁立を阻止するためだけでなく、佐竹氏と宇都宮氏の北関東の覇権を巡る戦いでもあった。那須口で成綱の名代で出陣した宇都宮忠綱の軍勢を破り(那須口の戦い)、追撃するが竹林の地で宇都宮成綱の軍勢と結城政朝の軍勢に敗れ兵を引き上げた(竹林の戦い)。合戦で敗北後、しばらくの間は足利政氏と連絡をとることが困難な状態に陥ってしまった。 永正13年(1516年)に、再び宇都宮氏を討つために岩城由隆とともに大軍を率いて下野を攻め、下野国上那須庄浄法寺縄釣で合戦するが、宇都宮成綱の調略によって那須氏が寝返ってしまったために不利になり敗北。兵を引き上げるが宇都宮成綱は義舜を追撃し、宇都宮氏の常陸国侵攻を許してしまうが、常陸国月居城でなんとか成綱の追撃から振り切ることに成功したが、大きな被害を出してしまった。 永正14年(1517年)3月13日に死去。享年48。庶長子の今宮永義(ながよし)は前述の今宮氏を継いだため、次男(嫡男)の義篤が跡を継いだ。
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