家督相続後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/18 14:51 UTC 版)
「西川甚五郎 (11代)」の記事における「家督相続後」の解説
1853年(嘉永6年)2月15日、父10代甚五郎死去に伴い、11代甚五郎を襲名し家督を相続する。11代甚五郎は八幡蚊帳衰微の時において西川家を存続発展させたのみならず、東京・大阪等に支店を開設し本支店6店舗で販売強化と販路拡張に努め、また工場を新設し製造方法の改良を行った。1878年(明治11年)には、従来の西川本家一括仕入れを改め支店による一部商品の「現地仕入れ」によるコスト削減を実現させる等流通の変化に応じた仕入れ方法への切り替えを行った。 支店は新たに現在の大阪市・尾道市・大分市・杵築市に開設した。なお、1876年(明治9年)開設した大阪支店は現在「西川リビング」へと発展した。1894年(明治27年)には八幡の同志である岡田八十次らとともに、輸出生糸の品質向上、輸出振興、雇用の創出を図るために資本金5万円で滋賀県八幡町宇津呂村に八幡製糸株式会社を設立し、翌年、50人繰で開業し、翌々年には120人繰へと拡張し、生糸製造高792貫、工女80名21)を数え、八幡町のみならず県下の大規模工場の一つへと発展させた(1929年(昭和4年)解散)。1896年(明治29年)2月八幡大字宮内に西川蚊帳製造所を新設(織機50台・女子24人を雇用)した。また、1887年(明治20年)大阪支店で、1889年(明治22年)東京日本橋店で布団の販売を開始した。従来、自家で作るものであった「布団」を商売の対象としたことで、季節商品の蚊帳から季節を問わない商品「布団」の取り扱いは西川家にとって年間を通じて安定した売上と仕事をもたらすことになった。
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