家督相続・藩政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 16:05 UTC 版)
正愛には実子が文政2年(1819年)10月に生まれるも、翌年に早世した。また正愛も病弱で、文政5年(1822年)春頃から肝臓を患い、2年後には危険な状態になったため、文政7年(1824年)、藩政を牛耳っていた老臣・金井右膳らは正篤を嫌って正愛の後見を務めていた堀田一族長老の若年寄・堀田正敦(近江国堅田藩主)の子を藩主に擁立しようとした。だが、藩内では物頭の渡辺弥一兵衛ら下級武士が金井に反対して対立。さらに正敦が養子を出すことを拒否したため、正篤が藩主に就任した。 当時の佐倉藩では金井右膳が専制を振るっていたが、これは、度重なる外国船の接近に対して佐倉藩は幕府の命令により文政6年(1823年)以来病気がちの藩主・正愛に代わって金井の主導により江戸防衛のための準戦時体制を取っていたことによる。 藩主となった正篤は、幕府の信任が厚い金井に時には掣肘を加えながらも、自らの家督相続を支持した渡辺を側用人に抜擢するなどして自らの権力を確立していく。 しかし、天保4年(1833年)に金井が死去するまでこの体制を維持した。金井の死後は、藩主として独り立ちをして藩政改革を指揮する。 正篤は藩主としては蘭学を奨励し、佐藤泰然を招聘して佐倉順天堂を開かせるなどしたことから「蘭癖」と呼ばれた。
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