家督相続と静岡藩主・知藩事
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「徳川家達」の記事における「家督相続と静岡藩主・知藩事」の解説
大政奉還・王政復古・江戸開城を経て、1868年(慶応4年)閏4月29日、新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許可され、一族の松平斉民らが後見役を命ぜられた。当時数え年で6歳だった。 5月18日に亀之助改め家達と名乗ることになった。5月24日、駿府藩主として70万石を与えられる。その領地は当初駿河国一円と遠江国・陸奥国の一部であったが、9月4日に陸奥国に代えて三河国の一部に変更された。 8月9日に中老・大久保一翁、大目付・加藤弘蔵など約100人を共にした行列を連れて江戸を出発し、徳川家所縁の地である駿河府中(現:静岡市葵区)へ向かった。6歳の家達に随行した御小姓頭取の伊丹鉄弥は以下のように記録している。「亀之助殿の行列を眺める群衆、それが何だか寂しそうに見えた。問屋場はいずれも人足が余計なほど出て居る。賃銭などの文句をいふ者は一人半個もない。これが最後の御奉公とでも云いたい様子であった。途中で行逢ふ諸大名も様々で、一行の長刀を見掛けて例の如く自ら乗物を出て土下座したものもある。此方は乗物を止めて戸を引くだけのこと。そうかと思へば赤い髪を被って錦切れを付けた兵隊が、一行と往き違いざまに路傍の木立に居る鳥を打つ筒音の凄まじさ。何も彼も頓着しない亀之助殿であった」。また年寄女中の初井は、駕籠の中から五人囃子の人形のようなお河童頭がチョイチョイ出て「あれは何、これは何」と道中の眺めを珍しげに尋ねられ、これに対して、左からも右からもいろいろ腰をかがめてお答え申しあげたと伝えている。 江戸にいた旗本や御家人などの旧幕臣は、武器弾薬や金などを取って脱走した反政府派を除くと大きく分けて3つの道があった。政府に仕えて朝臣に転じる道、家達に従って駿府へ移住して駿府(静岡)藩士になる道、藩に暇乞いして農工商に従事する道である。内訳は朝臣に転じたのが5,000戸ほど、駿府へ移住したのが12,000戸ほど、暇乞いしたのが3,600戸ほどだった(暇乞い組の中は生活の困難や当初の計画通りに行かなくなったことなどで後に藩に帰参した者もある)。駿府移住組が最も多いが、70万石の駿府藩でこれほどの規模の家臣団を家禄制のまま召し抱えるのは困難だったので、家禄制は廃止し、今後は役職者には役金、不勤者には扶持米を支給することを藩士たちに申し渡した。大半を占める不勤藩士(不勤だが「勤番組」という名称で組織された)には農工商などの職業に就くことを許可した。そのため扶持米の少ない不勤藩士は農工商業への従事、内職などして生計を立てた。 家達が駿府に到着したのは10月5日だったが、11月には旧江戸城の東京城(皇居)に戻り、明治天皇に拝謁した。函館五稜郭に立てこもった榎本武揚一党の征討を命ぜられたが、駿府へ移住したばかりの家臣たちに函館遠征は困難であったため、後見役の松平斉民が家達の出兵免除の請願書を提出し、田安家の当主に戻っていた父・慶頼と一橋家当主・徳川茂栄が連名で家達の代わりに出陣することを願い出て許され、家達の出陣は免除された。11月18日、従四位下左近衛権少将に叙任、同日さらに従三位左近衛権中将に昇叙転任する。12月5日に再び江戸を発って駿府へ向かった。 1869年(明治2年)4月6日に再び東京に到着し、13日に旧榊原家邸を静岡藩邸として与えられた。7月14日に東京を発って駿府への帰路につく。この留守中の6月に駿府は静岡と改称。また版籍奉還に伴い、明治2年(1869年)6月、静岡藩知藩事に就任し、同時に華族に列する。 静岡における家達の住居ははじめ元城代屋敷だったが、1869年7月に浅間神社前の神官新宮兵部邸(「宮ケ崎御住居」と呼ばれた)に移り、元城代屋敷は藩庁になった。駿府城内の御用談所には毎月10日間ほど出勤し、何の書類か分からぬまま書類に判を押す公務を執ったという。その公務の日以外は藩校の静岡学問所での学問や、小野派一刀流の浅利義明、心形刀流の中条景昭らの指南による剣術の稽古に励んだという。時々遊覧も行い、清水湊まで出向いて三保の松原の羽衣の松を鑑賞したり、漁師の網引きを見物したりした。当時家達に奥詰・家従として仕えた洋画家・川村清雄は家達はとてもおとなしい子供だったと回顧している。夜は男の家臣だけが控える部屋で寝ていたが、泣いたりすることもなく、川村と「お客様ごっこ」をして遊んでいたという。藩重臣たちの相談の結果、旧来将軍家では許されていなかった肉食も健康のため出すことが決まり、家達は牛肉の団子を入れた吸い物などを食べるようになった。 1869年7月に政府が全国の藩に対して藩政と知藩事個人の家政を切り離し公私の区別を付けることを命じた職員令を公布したのに伴い、家達の「宮ケ崎御住居」と慶喜の「紺屋町御住居」に勤務していた藩士たちは個人的使用人として家政に専念することになり、それを示すため9月6日に御側用人は家令、御小姓頭・御用人並・奥詰頭取は家扶、御小姓は一等家従、奥詰は二等家従に改名された。藩財政と藩主個人の家計も制度上は分離されたが、実際には静岡藩の会計方が両方を一元管理したので、結局2年後の廃藩置県まできちんとした分離はできていなかった。 1871年(明治4年)7月、廃藩置県によって知藩事たちは全員免職となり、華族の地位と家禄を保証されて東京へ移住することとなった。家達も8月28日に8人の共だけを連れて静岡を発ち、東京へ向かった。「宮ケ崎御住居」に勤務していた使用人たちは1872年(明治5年)9月に職階に応じた報奨金を出してリストラし、東京の使用人も一部だけを残して同様の処置を取った。その後「宮ケ崎御住居」は人見寧に引き渡され、彼はそこで修学所という学校を経営した。
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