家督相続と静岡藩主・知藩事とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 家督相続と静岡藩主・知藩事の意味・解説 

家督相続と静岡藩主・知藩事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:54 UTC 版)

徳川家達」の記事における「家督相続と静岡藩主・知藩事」の解説

大政奉還王政復古江戸開城経て1868年慶応4年)閏4月29日新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続許可され一族松平斉民らが後見役を命ぜられた。当時数え年6歳だった。 5月18日に亀之助改め家達名乗ることになった5月24日駿府藩主として70万石与えられる。その領地当初駿河国一円遠江国陸奥国一部であったが、9月4日陸奥国代えて三河国一部変更された。 8月9日中老大久保一翁大目付加藤弘蔵など約100人を共にした行列を連れて江戸出発し徳川家所縁の地である駿河府中(現:静岡市葵区)へ向かった6歳家達随行した御小姓頭取伊丹弥は以下のように記録している。「亀之助殿の行列眺め群衆、それが何だ寂しそう見えた問屋場はいずれ人足余計なほど出て居る。賃銭などの文句をいふ者は一人半個もない。これが最後御奉公とでも云いたい様子であった途中で行逢諸大名も様々で、一行長刀見掛け例の如く自ら乗物出て土下座したものもある。此方乗物止めて戸を引くだけのこと。そうかと思へば赤い髪を被って錦切れ付けた兵隊が、一行往き違いざまに路傍木立に居るを打つ筒音の凄まじさ。何も彼も頓着しない亀之助殿であった」。また年寄女中の初井は、駕籠の中から五人囃子人形のようなお河童頭がチョイチョイ出て「あれは何、これは何」と道中眺め珍しげ尋ねられ、これに対して、左からも右からもいろいろ腰をかがめてお答え申しあげたと伝えている。 江戸にいた旗本御家人などの旧幕臣は、武器弾薬や金などを取って脱走した反政府派を除くと大きく分けて3つの道があった。政府仕えて朝臣転じる道、家達に従って駿府移住して駿府静岡藩士になる道、藩に暇乞いして農工商に従事する道である。内訳朝臣転じたのが5,000戸ほど、駿府移住したのが12,000戸ほど、暇乞いしたのが3,600戸ほどだった(暇乞い組の中は生活の困難や当初の計画通りに行かなくなったことなどで後に藩に帰参した者もある)。駿府移住組が最も多いが、70万石駿府藩これほど規模家臣団家禄制のまま召し抱えるのは困難だったので、家禄制は廃止し今後役職者には役金、不勤者には扶持米支給することを藩士たちに申し渡した。大半占める不勤藩士(不勤だが「勤番組」という名称で組織された)には農工商などの職業に就くことを許可した。そのため扶持米少ない不勤藩士農工商業への従事内職などして生計立てた家達駿府到着したのは10月5日だったが、11月には旧江戸城東京城皇居)に戻り明治天皇拝謁した函館五稜郭立てこもった榎本武揚一党征討を命ぜられたが、駿府移住したばかりの家臣たちに函館遠征は困難であったため、後見役松平斉民家達出兵免除請願書提出し田安家当主戻っていた父・慶頼と一橋当主徳川茂栄連名家達代わりに出陣することを願い出て許され家達出陣免除された。11月18日従四位下左近権少将叙任同日さらに従三位左近衛権中将昇叙転任する。12月5日に再び江戸発って駿府向かった1869年明治2年4月6日再び東京到着し13日に旧榊原家邸を静岡藩邸として与えられた。7月14日東京発って駿府への帰路につく。この留守中の6月駿府静岡改称。また版籍奉還に伴い明治2年1869年6月静岡藩知藩事就任し同時に華族列する静岡における家達住居ははじめ元城屋敷だったが、1869年7月浅間神社前の神官新宮兵部邸(「宮ケ崎御住居」と呼ばれた)に移り元城屋敷藩庁になった駿府城内の御用談所には毎月10日間ほど出勤し何の書類分からぬまま書類に判を押す公務を執ったという。その公務の日以外は藩校静岡学問所での学問や、小野派一刀流浅利義明心形刀流中条景昭らの指南による剣術稽古励んだという。時々遊覧行い清水湊まで出向いて三保の松原羽衣の松鑑賞したり、漁師網引き見物したりした。当時家達奥詰家従として仕えた洋画家川村清雄家達はとてもおとなし子供だったと回顧している。夜は男の家臣だけが控え部屋寝ていたが、泣いたりすることもなく川村と「お客様ごっこ」をして遊んでいたという。藩重臣たちの相談結果旧来将軍家では許されていなかった肉食も健康のため出すことが決まり家達牛肉団子入れた吸い物などを食べようになった1869年7月政府全国の藩に対して藩政知藩事個人家政切り離し公私区別付けることを命じた職員令公布したに伴い家達の「宮ケ崎御住居」と慶喜の「紺屋町御住居」に勤務していた藩士たちは個人的使用人として家政専念することになり、それを示すため9月6日御側用人家令御小姓頭・御用人並・奥詰頭取家扶御小姓一等家従奥詰二等家従改名された。藩財政藩主個人家計制度上は分離されたが、実際に静岡藩会計方が両方一元管理したので、結局2年後廃藩置県まできちんとした分離はできていなかった。 1871年明治4年7月廃藩置県によって知藩事たちは全員免職となり、華族地位家禄保証され東京へ移住することとなった家達8月28日に8人の共だけを連れて静岡発ち東京へ向かった。「宮ケ崎御住居」に勤務していた使用人たち1872年明治5年9月職階応じた報奨金出してリストラし、東京使用人一部だけを残して同様の処置取ったその後宮ケ崎御住居」は人見寧引き渡され、彼はそこで修学所という学校経営した

※この「家督相続と静岡藩主・知藩事」の解説は、「徳川家達」の解説の一部です。
「家督相続と静岡藩主・知藩事」を含む「徳川家達」の記事については、「徳川家達」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「家督相続と静岡藩主・知藩事」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「家督相続と静岡藩主・知藩事」の関連用語

家督相続と静岡藩主・知藩事のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



家督相続と静岡藩主・知藩事のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの徳川家達 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS