家督相続と豊臣家臣の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 14:40 UTC 版)
「池田輝政」の記事における「家督相続と豊臣家臣の時代」の解説
天正10年(1582年)2月、兄と共に甲州征伐に出陣する。 同年6月、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれる。中国攻めから引き返して尼崎に到着した羽柴秀吉と合流した恒興は、このとき、秀吉の甥・秀次を恒興の婿に、輝政を秀吉の養子とすることを約束した。 同年10月15日、秀吉が京都大徳寺で信長の葬儀を催すと、輝政は羽柴秀勝と共に棺を担いだ。 天正11年(1583年)、父が美濃大垣城主となると、自らは池尻城主となった。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにおいて、父の恒興と兄の元助が討死したため、家督を相続し、美濃大垣城主13万石を領した。 天正13年(1585年)、同じ13万石で岐阜城主となった。その後も紀州征伐や富山の役(佐々成政征伐)、九州平定など秀吉の主要な合戦の大半に従軍した。 天正15年(1587年)6月21日から、羽柴岐阜侍従として所見される。天正16年(1588年)、従四位下侍従に叙任、豊臣姓を下賜された。 天正18年(1590年)の小田原征伐・奥州仕置には2,800の兵を率いて参加した。そのため戦後の同年9月、三河国の内、渥美・宝飯・八名・設楽4郡(東三河)において15万2,000石に加増され、吉田城主となった。また、在京の粮米として伊勢国小栗栖庄を与えられた。 吉田城主時代は同時期に尾張に入部した豊臣秀次に付属させられたと見られており、そのため文禄の役に際しては国内守備の任務にあった秀次に近侍して吉田城に留まり東国警衛の任にあたっている。朝鮮出兵に関する任務としては、大船建造や兵糧米の名護屋城回送を命じられている。また、伏見城普請や豊臣秀保の大和多内城普請を務めた。 文禄3年(1594年)、秀吉の仲介によって、徳川家康の娘・督姫を娶る。輝政の正室・糸姫は利隆を出産した際、出血が止まらずそれがもとで病気になり実家に帰ったとされる(『池田家履歴略記』)。中川家とはその後も関係が良好で、関ヶ原の戦いの前に糸姫の弟の中川秀成は輝政の仲介で家康に忠誠を誓った。 文禄4年(1595年)、関白・秀次の失脚時、その妻妾の多くが殺害されたものの、輝政の妹・若政所(秀次の正室)は例外的に助命されており、特別丁重に扱われている(秀次事件)。豊臣時代、輝政は豊臣一族に準じて遇されていた。
※この「家督相続と豊臣家臣の時代」の解説は、「池田輝政」の解説の一部です。
「家督相続と豊臣家臣の時代」を含む「池田輝政」の記事については、「池田輝政」の概要を参照ください。
- 家督相続と豊臣家臣の時代のページへのリンク