家督相続と祖父の補佐とは? わかりやすく解説

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家督相続と祖父の補佐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 17:14 UTC 版)

前田綱紀」の記事における「家督相続と祖父の補佐」の解説

父・光高は正保2年1645年4月31歳死去したこのため6月13日綱紀3歳家督遺領相続することとなった藩政に関して祖父の利常(寛永16年1639年)が、家督を光高に譲り後見することを、幕府より命じられた。 幼少期綱紀は、戦国武将生き残りであった祖父・利常と、智勇兼備していた父・光高の影響を受け、また利常が孫に尚武気風吹き込もう養育したため、かなり腕白育ったという。利常は当時賢君として知られ伊達忠宗池田光政らを紹介して彼らの話をよく聞かせ、客がある時は綱紀次室に座らせて傍聴させたという。 松平名字与えられ松平千代丸」となる。承応3年1654年1月12日、利常に伴われ江戸城登城し元服し、第4代将軍徳川家綱より偏諱授かり綱利と名乗った(のち綱紀改名)。同時に正四位下叙され左近衛権少将加賀守任官される。 万治元年1658年7月27日綱紀保科正之の娘・摩須と結婚する。正之は徳川家光異母弟で、家光没後幼少家綱補佐して幕政主導していた大老であり、血統経歴問題はなかったが、所領23万石で、加賀藩とはかなりの開きがあった。しかし利常が、徳川将軍家に子はなく、徳川御三家頼りないとして、将軍家血統に当たり人物器量抜群だった正之の娘をあえて選んだという。摩須は10歳嫁ぎ寛文6年1666年)に18歳若さ亡くなったが、綱紀その後継室迎えることはしなかった。綱紀は正之の思想大きく影響を受け、それはその後彼の政策反映されてゆくこととなる。綱紀藩政を「正之の模倣」とする指摘もある。 万治元年10月に利常が死去すると、岳父保科正之後見得て藩政改革行なうこととなる。まず、新田開発農業方面着手し十村制度整備した。さらに、寛文飢饉の際には生活困窮者助けるための施設当時これは「非人小屋」と呼ばれたが、金沢の人々綱紀への敬意から「御小屋」と呼んだ。「御救小屋」という呼称もある。)を設置して、後に授産施設併置した。この施設2000人近く人間収容することが可能であり、飢餓の際はここで米を支給した他、医者派遣して医療体制整えていた。御小屋建設について、綱紀藩主就任当時からこの施設作るアイデア持っていたが、巨大な施設ゆえ維持費が藩の財政圧迫するため、家老達の反発などもあり、実施には長い年月寛文飢饉という御小屋が必要とされる機会要したまた、藩内で長寿保っている者に対して褒美として扶持米与えたりした。さらに改作法作り前田家家中職制年寄役である加賀八家制度)を定めたまた、前田利家一向一揆鎮圧に手こずらされたことなどの影響から、加賀藩は他の藩と比較して刑罰苛烈であったが、綱紀死罪決定していた罪人減刑するなどした。こうした綱紀姿勢影響され苛烈刑罰綱紀以前比べる寛容になってゆき、厳罰旨とする武断政治から文治政治へと移行した対外政策においても、隣国福井藩との争いである「白山争論」に決着をつけた。また、母の冥福祈って白山比咩神社名刀吉光」を奉納した(これは現在国となっている)。 綱紀自身学問好んだこともあって(武芸から建築など幅広く修め儒学尊重する岳父の正之からは苦言呈されるなどした)、藩内に学問文芸奨励し書物奉行設けて工芸標本古書多く編纂収集し、これらを百工比照結実したまた、木下順庵室鳩巣稲生若水らを招聘し、彼らの助けのもとで綱紀自らが編纂した百科事典学苑』を記し家臣団にも学問奨励した。そして、宝生流能楽加賀藩導入している。綱紀自身能楽嗜み、その腕前能楽師引けを取らなかった。将軍の前で舞を披露したこともあった。また加賀藩士達も綱紀影響を受け、文芸傾倒した豊富な書籍収蔵され書庫は、新井白石から「加賀藩天下の書府」と礼賛された。 自家以外の古文書保管にも意を注ぎ東寺東寺百合文書保存娘婿三条西公福三条西家に伝わる「実躬卿記」の発見および補修にも、資金および技術多大な協力をしたことでも知られる規模大きい藩である加賀藩蓄財をしすぎると、幕府転覆画策しているのではないか幕府から警戒されるおそれがあった。そのため、綱紀は、資金余裕がある時は散財をした。豪奢な調度品仕入れ建物改築財産蕩尽することを惜しまなかった。幕府から警戒されないため、金に余裕がある時は散財惜しまないという方針は、祖父利常のそれを踏襲したものであった元禄2年1689年)には第5代将軍徳川綱吉から御三家準ずる待遇与えられ100万石を誇る最大大藩として、その権威頂点にまで高めたまた、荻生徂徠綱紀統治評して加賀非人小屋御小屋)を設けを以て加賀乞食なし。真に仁政と云ふべし」と述べている。 享保3年1718年)に各自火消として組織した加賀鳶定火消仙石兵庫久治配下臥煙との消口争い発生している。 享保8年1723年5月6日家督を四男の吉徳譲って隠居し、翌享保9年1724年5月9日82歳で死去した綱紀は、叔父徳川光圀池田光政らと並んで江戸時代前期名君一人として讃えられている。また綱紀長寿で、その藩政80年長きわたったことも、加賀藩にとっては幸福であった綱紀名君となることができたのは、幼少の頃祖父・利常の養育受けたからだと言われている。

※この「家督相続と祖父の補佐」の解説は、「前田綱紀」の解説の一部です。
「家督相続と祖父の補佐」を含む「前田綱紀」の記事については、「前田綱紀」の概要を参照ください。

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