家督相続と二頭体制とは? わかりやすく解説

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家督相続と二頭体制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)

毛利輝元」の記事における「家督相続と二頭体制」の解説

永禄6年1563年8月4日当主である父・隆元尼子攻めのさなか、安芸佐々部急死した。そのため、幸鶴丸11歳にして家督継承するが、元就後見して政治・軍事執行した。この時期安堵状宛行状官途状・加官状類は元就から発されており、幸鶴丸形式的に家督継承したものの、その権限保留状態にあった永禄8年1565年2月16日、幸鶴丸13歳のとき、吉田郡山城元服し室町幕府13代将軍・足義輝より「輝」の偏諱受けて、輝元と名乗った。もっとも、輝元が将軍偏諱を受けることができたのは元就幕府働きかけたからであり、永禄7年1564年12月以前から元服準備進められ、幸鶴丸の名を据えた花押文書同年半ば頃から増加したのもその一環であった考えられる。 これにより、輝元は事実上当主となり、幸期には全く発給していなかった官途状・加官状類が輝元の名でも発給されるようになり、輝元自身当主としての権限拡大された。だが、輝元と元就連署書状もあり、元就後見が必要となる場面もあった。 永禄8年3月、輝元は毛利氏による尼子攻め出陣し4月尼子氏本拠地月山富田城への総攻め初陣を飾る月山富田城の戦い)。この戦いにより、永禄9年1566年11月尼子氏当主尼子義久降伏し毛利氏にとって長年宿敵たる尼子氏滅亡した永禄10年1567年2月、輝元は吉田郡山城凱旋した他方元就自身二頭体制移行後、輝元の当主権限拡大されるにつれ徐々に権限移行し、輝元の初陣機に隠居考えていた。だが、同年に輝元は隠居しようとする元就隠居しないよう懇願し、その隠居断念させた。15歳の輝元に毛利氏領国円滑に運営させてゆく自信がなく、輝元の名で領主たちの盟主たりうることは困難であった。そのため、元就死没するまで、輝元と元就二頭政治体制が続くことになる。また、叔父吉川元春小早川隆景2人毛利氏庶家筆頭福原貞俊口羽通良合わせた4人、いわゆる「御四人」が輝元の政務補佐した

※この「家督相続と二頭体制」の解説は、「毛利輝元」の解説の一部です。
「家督相続と二頭体制」を含む「毛利輝元」の記事については、「毛利輝元」の概要を参照ください。

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