家督相続と小田原征伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 22:46 UTC 版)
「佐竹義宣 (右京大夫)」の記事における「家督相続と小田原征伐」の解説
天正14年(1586年)から天正18年(1590年)の間に、義宣は、父・義重の隠居によって家督を相続した。 このころの佐竹氏は、天正12年(1584年)に後北条氏と和議を結んで南方を抑えていたが、北方では伊達政宗に黒川城(弟・蘆名義広が城主となっていた)を陥落させられ、南奥州の基盤を失う事態に陥っていた。 佐竹氏は伊達氏と対立する傍ら、豊臣秀吉と音信を通じ、石田三成及び上杉景勝と親交を結んでいた。 こうした危機的な状況下において、義宣は、天正17年(1589年)11月28日、秀吉から小田原征伐への出陣命令を受けた。しかし、義宣は南郷において伊達政宗と対峙している最中であったため、直ちに命令に従うことはできなかった。 義宣は、秀吉自らが京を出立したという知らせを受けて、宇都宮国綱に対応を相談した上で、天正18年(1590年)5月、宇都宮国綱らを含めた1万余の軍勢を率いて小田原へ向かった。義宣は、北条方の城を落としつつ小田原へ進軍し、天正18年(1590年)5月27日、秀吉に謁見して臣下の礼をとった。 秀吉のもとに参陣した義宣は、天正18年(1590年)6月、石田三成指揮の下、忍城を攻めた。義宣は、忍城水攻めの際の堤防構築に従事した。
※この「家督相続と小田原征伐」の解説は、「佐竹義宣 (右京大夫)」の解説の一部です。
「家督相続と小田原征伐」を含む「佐竹義宣 (右京大夫)」の記事については、「佐竹義宣 (右京大夫)」の概要を参照ください。
- 家督相続と小田原征伐のページへのリンク