家督相続と譴責
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 00:06 UTC 版)
兄 保誠の家は凶事が頻発し保誠が早世すると家が絶えてしまった。このため里恭は一旦は家督を継いだが、不行跡で家督相続を差し止めされる(1728年)。300石を賜って宇佐美九右衛門と改名させられ、すぐのちに500石となって曽根図書と再度改名した。恐らくはその奇行とあまりの奔放ぶりのため幕府に睨まれることを藩が怖れたためと推測される。 里恭は多くの人と交遊を好み、自邸にて異常と思われるほど頻繁に宴席を催した。このため借金が嵩んでいたと伝えられる。2年後に赦され、二千五百石を給される。有能な家臣として寄合衆筆頭、大寄合などを勤め、三代藩主信鴻の画の師となっている。現存する淇園の作品は、これ以降のものが多い。
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