家督相続と藩の幕末とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 家督相続と藩の幕末の意味・解説 

家督相続と藩の幕末

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 00:57 UTC 版)

松前徳広」の記事における「家督相続と藩の幕末」の解説

天保15年1844年3月14日、第11藩主松前昌広長男として福山城にて誕生した嘉永2年1849年)に父が隠居したが、徳広は幼少だったため叔父・崇広が藩主就任した嘉永6年1853年3月世子指名され安政5年1858年12月従五位下志摩守に叙位任官した慶応2年1866年4月に崇広が死去したため、その養子として家督相続した文人尊王派であったがしかし元々肺結核かつ重度痔疾で、さらに精神病でもあったために政務を執れず、さらに松前氏では若年家督を継ぐ藩主続いたことから、歴代藩主重臣統治任せることが常態化していた。結果として一部重臣らの専横への不満が藩にくすぶっていた。また藩は当時新政府方と奥羽越列藩同盟それぞれ遣いを立てる日和見政策取っていたため、藩内の派閥の不満もあった。同年11月に徳広は藩主を退く発言したため、藩を主導する筆頭家老松前勘解由らは、崇広次男の敦千代松前隆広)の後継擁立画策した。しかし日頃から勘解由執政批判的な勢力がこれに反発し勘解由家老解任され蟄居処分となった。ただし勘解由抜きで藩政ままならず慶応4年1868年4月には家老復帰した慶応4年1868年7月鈴木太郎下国東七郎ら尊皇派40名余の家臣団らが蜂起した箱館新政府方と連携し、「正義隊」を名乗って徳広に対し建白書提出佐幕派一掃勤王への転向強要した弱っていた徳広がこれを承諾したため、慌てた家老松前勘解由急遽登城しようとする果たせず、集まった1千名もの藩士と共に藩の武器弾薬庫から武器出し松前城の東にある法華寺から正義隊が立て籠もる城中への砲撃企図したが、君臣の分を弁えよ、と説得され思いとどまった。翌29日勘解由家老罷免された。逆に勢い得た正義隊は、8月1日佐幕派重臣らを襲撃した勘解由屋敷襲撃されるがこれは撃退するも、8月2日自宅禁固となり、8月3日勘解由切腹となった。その他重臣多く正義隊の思うがままに処罰され正義隊により新たに合議局・正議局・軍謀局などが創設され人材新たな登用なども行なわれるどしたが、藩内はただ著しく混乱した。 この状況の中、藩は箱館戦争迎えることとなる。

※この「家督相続と藩の幕末」の解説は、「松前徳広」の解説の一部です。
「家督相続と藩の幕末」を含む「松前徳広」の記事については、「松前徳広」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「家督相続と藩の幕末」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「家督相続と藩の幕末」の関連用語

1
12% |||||

家督相続と藩の幕末のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



家督相続と藩の幕末のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの松前徳広 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS