家督相続と藩の幕末
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天保15年(1844年)3月14日、第11代藩主・松前昌広の長男として福山城にて誕生した。嘉永2年(1849年)に父が隠居したが、徳広は幼少だったため叔父・崇広が藩主に就任した。嘉永6年(1853年)3月に世子に指名され、安政5年(1858年)12月に従五位下、志摩守に叙位・任官した。 慶応2年(1866年)4月に崇広が死去したため、その養子として家督を相続した。文人で尊王派であったがしかし元々肺結核かつ重度の痔疾で、さらに精神病でもあったために政務を執れず、さらに松前氏では若年で家督を継ぐ藩主が続いたことから、歴代藩主は重臣に統治を任せることが常態化していた。結果として、一部重臣らの専横への不満が藩にくすぶっていた。また藩は当時、新政府方と奥羽越列藩同盟にそれぞれ遣いを立てる日和見政策を取っていたため、藩内の両派閥の不満もあった。同年11月に徳広は藩主を退く発言をしたため、藩を主導する筆頭家老の松前勘解由らは、崇広次男の敦千代(松前隆広)の後継擁立を画策した。しかし日頃から勘解由の執政に批判的な勢力がこれに反発し、勘解由は家老を解任され蟄居処分となった。ただし勘解由抜きでは藩政はままならず、慶応4年(1868年)4月には家老に復帰した。 慶応4年(1868年)7月、鈴木織太郎や下国東七郎ら尊皇派の40名余の家臣団らが蜂起した。箱館の新政府方と連携し、「正義隊」を名乗って徳広に対し建白書を提出、佐幕派の一掃と勤王への転向を強要した。弱っていた徳広がこれを承諾したため、慌てた家老の松前勘解由は急遽登城しようとするが果たせず、集まった1千名もの藩士と共に藩の武器弾薬庫から武器を出し、松前城の東にある法華寺から正義隊が立て籠もる城中への砲撃を企図したが、君臣の分を弁えよ、と説得され思いとどまった。翌29日に勘解由は家老を罷免された。逆に勢いを得た正義隊は、8月1日に佐幕派重臣らを襲撃した。勘解由も屋敷を襲撃されるがこれは撃退するも、8月2日に自宅禁固となり、8月3日、勘解由は切腹となった。その他重臣の多くは正義隊の思うがままに処罰され、正義隊により新たに合議局・正議局・軍謀局などが創設され、人材の新たな登用なども行なわれるなどしたが、藩内はただ著しく混乱した。 この状況の中、藩は箱館戦争を迎えることとなる。
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