家督相続と霜月騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:10 UTC 版)
弘安7年(1284年)4月、父・時宗が病死し13歳(満12歳)で執権に就任する。だが8月には北条時光(ときみつ、北条家佐介流)の陰謀事件が起こるなど、その初期治世は安定しなかった。これは貞時に兄弟がおらず、また叔父(父の実弟)であった北条宗政など有力親族が早世していたために幼い貞時を支えるべき藩屏が全く存在していなかったためとされる。 このため幕政は貞時の外祖父(ただし血縁上は外伯父)である有力御家人で弘安徳政を推進していた安達泰盛が掌握するが、泰盛の施策は得宗家の勢力を削減して御家人らの既得権益も侵したために幕府内で孤立した。このため得宗家執事(内管領)で貞時の乳母の夫にあたる平頼綱ら反安達勢力との対立が激化する。 弘安8年(1285年)11月17日、頼綱の讒言により泰盛を討伐する命を下す(霜月騒動)。これにより泰盛派は一掃され、頼綱が実権を掌握して権勢を振るった。
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