家督相続と内訌
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文明9年(1477年)、大内氏の第14代当主・大内政弘の子として生まれる。幼名は亀童丸。長享2年1月30日(1488年3月13日)に京都にて元服し、将軍・足利義尚から「義」の字を許されて「義興」の名を与えられた。 明応元年(1492年)、父の命令で六角高頼討伐(長享・延徳の乱)に参戦する。ところが、その最中の明応2年(1493年)に管領細川政元が将軍足利義材を幽閉する明応の政変が発生する。義興は兵を摂津国の兵庫に引き上げたまま事態の推移を見守っただけであった。この政変に関連して、細川政元派の武田元信の配下によって当時京都に滞在していた義興の妹が誘拐される事件(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月1日条)や父・政弘が義興の側近に切腹を命じる事件(『大乗院寺社雑事記』明応2年8月4日条)などが発生しており、細川政元らが大内政弘が足利義材を支援することを恐れて人質を取って若年の義興に圧力をかけ、その対応の拙さが本国の政弘の怒りを買ったと推測される。だが、一方でこの出兵が京都生まれの義興と本国の被官との関係構築に大いに寄与する事になり、家督継承後の義興の支配に資することになった。 明応3年(1494年)秋、父が病気により隠居したため、家督を譲られて大内氏の第15代当主となり、暫くの間、義興は父である政弘の後見を受けるが、明応4年(1495年)9月18日に父が死去すると、名実ともに大内氏の当主となる。 ところが、義興への家督継承の前後から大内家中で不穏な事件が相次いで発生する。まず、先の畿内出兵中に義興に従って出陣しながら、突如出奔して出家してしまった陶武護が帰国して、代わりに家督を継いだ弟の陶興明を明応4年(1495年)2月に殺害した。そして武護は「長門守護代の内藤弘矩が弟の尊光を擁立しようとした」と義興に讒言した。それを信じた義興は明応4年(1495年)2月28日に兵を防府にさしむけて、弘矩と子の弘和を誅殺してしまった。ただし、後に内藤父子の冤罪を知り、讒言した武護を誅殺し、弘矩の娘を正室に迎えて弘矩の弟である内藤弘春に内藤氏を再興させ、同じく陶氏も末弟の陶興房に継がせて再興させた。弟・大護院尊光の擁立に関しては明応8年(1499年)に現実のものとなり、重臣の杉武明が反乱を起こしたが、義興はこれを鎮圧して武明を自殺させ、尊光は大友氏を頼って豊後に亡命した。ところが、内藤弘矩・陶武護・杉武明の誅殺については通説と異なる話(例えば、内藤弘矩は陶武護とともに謀反を起こそうとして先代当主である政弘に殺された説(『晴興宿禰記』明応4年3月21日条)の存在や、杉武明が直前まで義興の信任を受けていたこと)が伝えられ、大内氏内部により複雑な政治的対立があったとも考えられている。そして、父・大内政弘の存命中に陶弘護(武護・興明・興房兄弟の父)・内藤弘矩が亡くなり、有力重臣である陶氏・内藤氏を一時没落させたことが、後を受けた義興の地位を安定させることにもつながった。
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