家督相続と内訌とは? わかりやすく解説

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家督相続と内訌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 22:40 UTC 版)

大内義興」の記事における「家督相続と内訌」の解説

文明9年1477年)、大内氏第14代当主大内政弘の子として生まれる。幼名は亀童丸長享2年1月30日1488年3月13日)に京都にて元服し将軍足利義尚から「義」の字を許されて「義興」の名を与えられた。 明応元年1492年)、父の命令で六角高頼討伐長享・延徳の乱)に参戦する。ところが、その最中明応2年1493年)に管領細川政元将軍足利義材幽閉する明応の政変発生する。義興は兵を摂津国兵庫引き上げたまま事態の推移見守っただけであった。この政変関連して細川政元派の武田元信配下によって当時京都滞在していた義興の妹が誘拐され事件(『大乗院寺社雑事記明応2年閏4月1日条)や父・政弘が義興の側近切腹命じ事件(『大乗院寺社雑事記明応2年8月4日条)などが発生しており、細川政元らが大内政弘足利義材支援することを恐れて人質取って若年の義興に圧力をかけ、その対応の拙さ本国の政弘の怒り買った推測される。だが、一方でこの出兵京都生まれの義興と本国被官との関係構築大い寄与する事になり、家督継承後の義興の支配資することになった明応3年1494年)秋、父が病気により隠居したため、家督譲られ大内氏第15代当主となり、暫くの間、義興は父である政弘の後見を受けるが、明応4年1495年9月18日に父が死去すると、名実ともに大内氏当主となる。 ところが、義興への家督継承前後から大内家中で不穏な事件相次いで発生する。まず、先の畿内出兵中に義興に従って出陣しながら、突如出奔し出家してしまった陶武護帰国して代わりに家督継いだ弟の陶興明明応4年1495年2月殺害した。そして武護は「長門守護代の内藤弘矩が弟の尊光を擁立しようとした」と義興に讒言した。それを信じた義興は明応4年1495年2月28日に兵を防府さしむけて、弘矩と子の弘和誅殺してしまった。ただし、後に内藤父子冤罪知り讒言した武護を誅殺し、弘矩の娘を正室迎えて弘矩の弟である内藤弘春内藤氏再興させ、同じく陶氏末弟陶興房に継がせて再興させた。弟・大護院尊光の擁立に関して明応8年1499年)に現実のものとなり、重臣杉武明反乱起こしたが、義興はこれを鎮圧して武明を自殺させ、尊光は大友氏頼って豊後亡命した。ところが、内藤弘矩陶武護杉武明誅殺については通説異なる話(例えば、内藤弘矩陶武護とともに謀反起こそうとして先代当主である政弘に殺された説(『晴興宿禰記』明応4年3月21日条)の存在や、杉武明直前まで義興の信任受けていたこと)が伝えられ大内氏内部により複雑な政治的対立があったとも考えられている。そして、父・大内政弘存命中に陶弘護(武護・興明・興房兄弟の父)・内藤弘矩亡くなり、有力重臣である陶氏内藤氏一時没落させたことが、後を受けた義興の地位安定させることにもつながった

※この「家督相続と内訌」の解説は、「大内義興」の解説の一部です。
「家督相続と内訌」を含む「大内義興」の記事については、「大内義興」の概要を参照ください。

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