家督相続から摺上原の戦いまでとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 家督相続から摺上原の戦いまでの意味・解説 

家督相続から摺上原の戦いまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 13:00 UTC 版)

伊達政宗」の記事における「家督相続から摺上原の戦いまで」の解説

天正12年1584年10月、父・輝宗の隠居にともない家督相続し伊達家第17代当主となる。この時、政宗若年理由辞退申し出たが、一門重臣勧め受けて家督譲り受けている。仙台藩公式記録である『伊達治家記録』では、家督相続10月6日から22日の間の出来事記し、これについては現存史料でも輝宗の当主としての発給文書の終見が10月5日付 で、政宗当主としての発給文書初見10月23日付のうえ、輝宗隠居知らせ聞いた石川昭光(輝宗の実弟)からの問い合わせ対す回答伝えられているため、この推定はほぼ正確と思われる。 この当主交代について、小林清治10月6日会津蘆名盛隆家臣暗殺されたことを受けて、輝宗がかつて蘆名盛氏(盛隆の養父に対して自分次男小次郎)が成長したら盛氏の養子にする案を示した書状交わしていた事を理由に、9月生まれたばかりの盛隆の遺児蘆名亀王丸(亀若。小林は「亀若丸」とする。母は輝宗の妹彦姫であり輝宗の実の甥)ではなく実子小次郎蘆名氏当主送り込もう計画した。しかし、常陸佐竹義重がこれに反対して、蘆名家中に対して王丸家督相続支持する書状送ったために小次郎の入嗣計画失敗し、それが引き金になって輝宗の隠居および政宗による蘆名氏との同盟破棄繋がった唱えている。これに対して垣内和孝は政宗家督継承直後蘆名氏との関係を修復する意向持っていたとして、輝宗の隠居蘆名氏家督問題そのものよりも隣国当主不慮の死とそれに伴う混乱見てこうした危機回避するために自分健在のうちに次の当主への交代決めたとしている。 小浜城主・大内定綱二本松城主・畠山義継手を組み田村氏支配から離脱していた。大内氏蘆名氏支援求め田村氏伊達氏支援求める事になったこうした状況受けて蘆名盛隆畠山義継は輝宗父子に対して田村氏大内氏和睦持ちかけていた。一方家督継承前から蘆名氏との外交に関わってきた輝宗も蘆名氏岩城氏田村氏和睦仲介にあたろうとしていた。しかし、前者田村氏の婿である政宗拒否し後者は盛隆没後蘆名氏受け入れるところとならなかった。伊達氏田村氏蘆名氏大内氏和睦不成立は、長く続いた伊達氏蘆名氏同盟終止符を打つ事になる。 天正13年1585年5月蘆名檜原攻めると、8月には大内小手森城へ兵を進め近隣諸国への見せしめとして撫で斬り行い城中の者を皆殺しにしている。大内定綱没落間近見た義継は和議申し出、輝宗の取りなしにより五ヶのみを二本松領として安堵される事になった。ところが輝宗は、所領安堵の件などの礼に来ていた義継の見送り出た所を拉致される当時鷹狩りに出かけていた政宗は、急遽戻って義継を追跡し鉄砲放って輝宗もろとも一人残さず殺害した。この事件については、鷹狩の手勢がなぜか鉄砲武装していたことを根拠に、政宗による父殺し陰謀と見る説もある。 その後初七日法要を済ますと、輝宗の弔い合戦称して二本松城包囲11月17日二本松城救援のため集結した佐竹氏率いる約3の南奥州諸侯連合軍安達郡人取激突した。数に劣る伊達軍潰走し、政宗自身矢玉浴びるなど危機的状況陥ったが、殿軍務めた老臣鬼庭左月斎防戦によって退却成功し翌日佐竹軍の撤兵により窮地脱した人取橋の戦い)。 なお、この年3月正親町天皇織田信長比叡山焼き討ちによって焼失した延暦寺根本中堂などの再建へ助力のために政宗対し献金引換美作守への叙任打診した。しかし、政宗周辺情勢緊迫化によって助力が困難である事から、同年8月政宗会見した青蓮院使者に対して美作守の辞退正式に通知している(もっとも、稙宗以来歴代当主左京大夫称してきた伊達氏としては美作守は格下扱い考えた可能性はある)。ところが、この時の綸旨口宣案はこの件を仲介しようとしていた青蓮院宙に浮いてしまい、政宗の死から80年以上経った享保7年1722年になって青蓮院から仙台藩主伊達吉村引き渡されたため、この叙任が『治家記録』などの後世の史料史実として記載されている(享保当時伊達家にも青蓮院にも、天皇綸旨政宗辞退することは考えられず、戦乱のために伝達できなかったと誤認したとみられる)。 天正14年1586年4月政宗は自ら出馬して二本松城包囲畠山氏当主国王丸を立てて必死に抵抗する7月相馬義胤仲介伊達氏蘆名氏の間で和議結ばれ国王丸は二本松城明け渡して会津蘆名氏のもとに亡命事となった。これによって二本松畠山氏事実上滅亡したその後政宗佐竹氏やほかの南奥州諸侯との和議進め、一旦は平和を回復した。ところが、11月蘆名亀若丸がわずか3歳急死すると、佐竹義重自分の子である義広蘆名氏当主擁立した。しかし、義重は事前に白河結城氏岩城氏などに義広擁立に関する同意取りつける一方で、弟の小次郎擁するとみられた政宗には何ら通告を行わなかった。これを佐竹氏による伊達氏排除意思とみた政宗佐竹氏との全面対決決意するになった天正15年1587年12月関白豊臣秀吉関東奥羽諸大名、特に関東北条氏奥州伊達氏に対して惣無事令私戦禁止令)を発令した。しかし、政宗秀吉命令無視して戦争続行した天正16年1588年2月北方大崎氏家中内紛介入して1万侵攻させたが、黒川晴氏離反大崎方の抵抗遭い敗北した。さらに政宗への反感強めていた伯父最上義光が義光の義兄大崎側に立って参戦し伊達各地最上勢に攻め落とされた(大崎合戦)。時を同じくして、大崎合戦乗じて伊達南部蘆名氏相馬氏侵攻し苗代田城を落とされてしまう(郡山合戦)。しかし、南方戦線において伊達成実による大内定綱調略成功北方戦線では5月最上氏との間に割って入った母・義姫懇願により停戦し、体勢立て直しが行われた。7月最上氏および蘆名氏和議成立して窮地脱し愛姫実家田村氏領の確保成功した田村仕置)。9月金山宗洗を通じて豊臣秀吉恭順示し秀吉天正17年前半の上洛を求めた天正17年1589年2月26日政宗落馬左足骨折して療養に入る。その隙をついて4月になると岩城常隆田村領に侵攻開始し相馬義胤呼応した怪我治した政宗5月になって漸く出陣するが、蘆名方の片平親綱大内定綱の弟)が政宗帰順したと知ると、方向一転して会津方向に向かう事になる。5月から6月にかけて会津蘆名義広争い磐梯山麓の摺上原破った摺上原の戦い)。敗れた義広黒川城放棄して実家佐竹家逃れ、ここに戦国大名としての蘆名氏滅亡したこの頃になると惣無事令遵守して奥州への介入及び腰になっていた佐竹氏側から結城義親石川昭光岩城常隆らが次々と伊達方転じて政宗服属し、なおも抵抗続けていた二階堂氏などは政宗により滅ぼされた。秀吉恭順惣無事反故にされた形となり、会津から撤退しない場合奥羽出兵する事を明らかにした。 この時、政宗現在の福島県中通り地方会津地方、および山形県置賜地方宮城県南部領し全国的に屈指の領国規模築いた。これに加え上述白河結城氏ら南陸奥の諸豪族や、また現在の宮城県北部岩手県一部支配していた大崎氏葛西氏政宗勢力にあった

※この「家督相続から摺上原の戦いまで」の解説は、「伊達政宗」の解説の一部です。
「家督相続から摺上原の戦いまで」を含む「伊達政宗」の記事については、「伊達政宗」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「家督相続から摺上原の戦いまで」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「家督相続から摺上原の戦いまで」の関連用語

家督相続から摺上原の戦いまでのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



家督相続から摺上原の戦いまでのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの伊達政宗 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS