家督相続から摺上原の戦いまで
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「伊達政宗」の記事における「家督相続から摺上原の戦いまで」の解説
天正12年(1584年)10月、父・輝宗の隠居にともない家督を相続し、伊達家第17代当主となる。この時、政宗は若年を理由に辞退を申し出たが、一門・重臣の勧めを受けて家督を譲り受けている。仙台藩の公式記録である『伊達治家記録』では、家督相続を10月6日から22日の間の出来事と記し、これについては現存史料でも輝宗の当主としての発給文書の終見が10月5日付 で、政宗の当主としての発給文書の初見が10月23日付のうえ、輝宗隠居の知らせを聞いた石川昭光(輝宗の実弟)からの問い合わせに対する回答 と伝えられているため、この推定はほぼ正確と思われる。 この当主交代について、小林清治は10月6日に会津の蘆名盛隆が家臣に暗殺されたことを受けて、輝宗がかつて蘆名盛氏(盛隆の養父)に対して自分の次男(小次郎)が成長したら盛氏の養子にする案を示した書状 を交わしていた事を理由に、9月に生まれたばかりの盛隆の遺児蘆名亀王丸(亀若。小林は「亀若丸」とする。母は輝宗の妹彦姫であり輝宗の実の甥)ではなく、実子の小次郎を蘆名氏の当主に送り込もうと計画した。しかし、常陸の佐竹義重がこれに反対して、蘆名家中に対して亀王丸の家督相続を支持する書状 を送ったために小次郎の入嗣計画が失敗し、それが引き金になって輝宗の隠居および政宗による蘆名氏との同盟破棄に繋がったと唱えている。これに対して、垣内和孝は政宗は家督継承直後は蘆名氏との関係を修復する意向を持っていたとして、輝宗の隠居は蘆名氏の家督問題そのものよりも隣国の当主の不慮の死とそれに伴う混乱を見て、こうした危機を回避するために自分が健在のうちに次の当主への交代を決めたとしている。 小浜城主・大内定綱は二本松城主・畠山義継と手を組み、田村氏の支配から離脱していた。大内氏は蘆名氏の支援を求め、田村氏は伊達氏の支援を求める事になった。 こうした状況を受けて、蘆名盛隆と畠山義継は輝宗父子に対して田村氏と大内氏の和睦を持ちかけていた。一方、家督継承前から蘆名氏との外交に関わってきた輝宗も蘆名氏や岩城氏と田村氏の和睦の仲介にあたろうとしていた。しかし、前者は田村氏の婿である政宗が拒否し、後者は盛隆没後の蘆名氏が受け入れるところとならなかった。伊達氏・田村氏と蘆名氏・大内氏の和睦の不成立は、長く続いた伊達氏と蘆名氏の同盟に終止符を打つ事になる。 天正13年(1585年)5月に蘆名領檜原を攻めると、8月には大内領小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめとして撫で斬りを行い、城中の者を皆殺しにしている。大内定綱の没落を間近で見た義継は和議を申し出、輝宗の取りなしにより五ヶ村のみを二本松領として安堵される事になった。ところが輝宗は、所領安堵の件などの礼に来ていた義継の見送りに出た所を拉致される。当時鷹狩りに出かけていた政宗は、急遽戻って義継を追跡し、鉄砲を放って輝宗もろとも一人も残さず殺害した。この事件については、鷹狩中の手勢がなぜか鉄砲で武装していたことを根拠に、政宗による父殺しの陰謀と見る説もある。 その後、初七日法要を済ますと、輝宗の弔い合戦と称して二本松城を包囲。11月17日、二本松城救援のため集結した佐竹氏率いる約3万の南奥州諸侯連合軍と安達郡人取橋で激突した。数に劣る伊達軍は潰走し、政宗自身も矢玉を浴びるなど危機的状況に陥ったが、殿軍を務めた老臣・鬼庭左月斎の防戦によって退却に成功し、翌日の佐竹軍の撤兵により窮地を脱した(人取橋の戦い)。 なお、この年の3月、正親町天皇は織田信長の比叡山焼き討ちによって焼失した延暦寺の根本中堂などの再建への助力のために政宗に対し、献金と引換に美作守への叙任を打診した。しかし、政宗は周辺情勢の緊迫化によって助力が困難である事から、同年閏8月に政宗は会見した青蓮院の使者に対して美作守の辞退を正式に通知している(もっとも、稙宗以来歴代当主が左京大夫を称してきた伊達氏としては美作守は格下扱いと考えた可能性はある)。ところが、この時の綸旨と口宣案はこの件を仲介しようとしていた青蓮院で宙に浮いてしまい、政宗の死から80年以上経った享保7年(1722年)になって青蓮院から仙台藩主伊達吉村に引き渡されたため、この叙任が『治家記録』などの後世の史料に史実として記載されている(享保当時の伊達家にも青蓮院にも、天皇の綸旨を政宗が辞退することは考えられず、戦乱のために伝達できなかったと誤認したとみられる)。 天正14年(1586年)4月、政宗は自ら出馬して二本松城を包囲、畠山氏は当主・国王丸を立てて必死に抵抗する。7月、相馬義胤の仲介で伊達氏と蘆名氏の間で和議が結ばれ、国王丸は二本松城を明け渡して会津の蘆名氏のもとに亡命す事となった。これによって二本松畠山氏は事実上滅亡した。その後、政宗は佐竹氏やほかの南奥州諸侯との和議を進め、一旦は平和を回復した。ところが、11月に蘆名亀若丸がわずか3歳で急死すると、佐竹義重は自分の子である義広を蘆名氏の当主に擁立した。しかし、義重は事前に白河結城氏・岩城氏などに義広の擁立に関する同意を取りつける一方で、弟の小次郎を擁するとみられた政宗には何ら通告を行わなかった。これを佐竹氏による伊達氏排除の意思とみた政宗は佐竹氏との全面対決を決意する事になった。 天正15年(1587年)12月、関白・豊臣秀吉は関東・奥羽の諸大名、特に関東の北条氏と奥州の伊達氏に対して、惣無事令(私戦禁止令)を発令した。しかし、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。 天正16年(1588年)2月、北方の大崎氏家中の内紛に介入して兵1万を侵攻させたが、黒川晴氏の離反と大崎方の抵抗に遭い敗北した。さらに政宗への反感を強めていた伯父・最上義光が義光の義兄・大崎側に立って参戦し、伊達領各地を最上勢に攻め落とされた(大崎合戦)。時を同じくして、大崎合戦に乗じて伊達領南部に蘆名氏・相馬氏が侵攻して苗代田城を落とされてしまう(郡山合戦)。しかし、南方戦線において伊達成実による大内定綱の調略が成功、北方戦線では5月に最上氏との間に割って入った母・義姫の懇願により停戦し、体勢の立て直しが行われた。7月、最上氏および蘆名氏と和議が成立して窮地を脱し、愛姫の実家・田村氏領の確保に成功した(田村仕置)。9月、金山宗洗を通じて豊臣秀吉へ恭順を示し、秀吉は天正17年前半の上洛を求めた。 天正17年(1589年)2月26日、政宗は落馬で左足を骨折して療養に入る。その隙をついて4月になると岩城常隆が田村領に侵攻を開始し、相馬義胤も呼応した。怪我を治した政宗は5月になって漸く出陣するが、蘆名方の片平親綱(大内定綱の弟)が政宗に帰順したと知ると、方向を一転して会津方向に向かう事になる。5月から6月にかけて会津の蘆名義広と争い、磐梯山麓の摺上原で破った(摺上原の戦い)。敗れた義広は黒川城を放棄して実家の佐竹家に逃れ、ここに戦国大名としての蘆名氏は滅亡した。この頃になると惣無事令を遵守して奥州への介入に及び腰になっていた佐竹氏側から結城義親・石川昭光・岩城常隆らが次々と伊達方に転じて政宗に服属し、なおも抵抗を続けていた二階堂氏などは政宗により滅ぼされた。秀吉は恭順と惣無事を反故にされた形となり、会津から撤退しない場合は奥羽へ出兵する事を明らかにした。 この時、政宗は現在の福島県の中通り地方と会津地方、および山形県の置賜地方、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築いた。これに加え上述の白河結城氏ら南陸奥の諸豪族や、また現在の宮城県北部や岩手県の一部を支配していた大崎氏・葛西氏も政宗の勢力下にあった。
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