家督争いと家督継承とは? わかりやすく解説

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家督争いと家督継承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 14:42 UTC 版)

宗像氏貞」の記事における「家督争いと家督継承」の解説

天文14年1545年)、筑前国宗像大社78大宮司宗像正氏庶子として生まれる。幼名は鍋寿丸。 父・正氏は大内氏属し天文16年1547年)に死去すると、その家督は父の猶子宗像氏男が継ぐことになった。ところが天文20年1551年)、陶晴賢謀反により大内義隆討たれ大寧寺の変において、氏男は義隆を守り奮戦するが討死した。 そのため、宗像氏内部家督争いが起こる。鍋寿丸相続支持する一派白山城に、宗像千代松氏男の弟)を支持する一派蔦ヶ岳城立て籠もって、家督巡って争った。しかし陶晴賢は鍋寿丸家督相続支持したため、鍋寿丸がこの争い勝利して1551年9月12日、鍋寿丸宗像入り翌年宗像大宮司補任され、宗像総領継いだ1552年山田事件起き宗像氏男の父である宗像氏続は英彦山逃亡するも、その年の暮れ土橋氏康によって殺害された。氏貞は山口派の領主として活動し吉見正頼打倒陶の兵を挙げた1554年石見三本松城にも参加している。また、1555年厳島の戦い陶晴賢自刃するが、この戦い宗像勢も参加したという説があるが実際不明小早川隆景宗像騙り厳島の陶軍の陣に兵を紛れ込ませたともいわれている(宗像氏有した水軍衆諸国知れ渡っていたため)。

※この「家督争いと家督継承」の解説は、「宗像氏貞」の解説の一部です。
「家督争いと家督継承」を含む「宗像氏貞」の記事については、「宗像氏貞」の概要を参照ください。

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