宗像氏貞
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宗像 氏貞(むなかた うじさだ)は、戦国時代の大名。宗像大社第79代大宮司。居城は蔦ヶ岳城。宗像氏本流の最後の当主。
注釈
- ^ 一説は天文6年(1537年)『宗像系図』。享年51歳
- ^ 『宗像記追考』宗像記追考 P.610~612によると、大友宗麟の乱行には手厳しい占部貞保(宗仙)が道雪のことは「大友家無二の忠臣、武勇に於いて並び無き大将である」と評している。どうも貞保(宗仙)はこの勇猛な忠臣に一目置き、好感を持っていたようである[独自研究?]。しばしば合戦があったのは鑑載の時で、道雪が立花に在城した後には宗像殿と一度も合戦がなかったとし、道雪を「御縁者」と言っている。立花家中ではお色姫は人質であるとささやかれ、これを宗像家中の人々は口惜しがったというが、実際は人質などでなく松尾の丸に居られた為に松尾殿と呼ばれてかしづき奉られた。又、道雪とも仲が良かったので、先立った時には道雪が大層嘆いたなどと述べている。(お色姫は天正12年(1584年)3月24日に39歳で没したが、この日は山田事件の当日で、自殺したとの説もある。) 道雪はお色姫の輿に付き添った石松加賀守秀兼に、中国で見聞きした毛利元就の軍法や合戦を語らせた。佐須の合戦の次第を逐一申し上げ、元就は少しばかりの心遣いをした事に対して秀兼を御前に召され「賞は時を越えず」と仰せになって鬨(とき)の刀を下された話の段になると、「誠に毛利殿は並び無き名将」と賞し、「それは軍中の賞だが、これは今日の祝儀に刀を参らせよう」と言って道雪自ら刀を授けて下さった。貞保(宗仙)はこの一連の話をあげ、立花の人々がお色姫の輿入れは人質の為で儀式の輿入れもなかったとしているのは嘘であると反論している。辛口の貞保(宗仙)が仇敵に好意的なのは、或いは大友方の重臣臼杵鑑速の娘であるお方様(氏貞の妻)に対する気遣いかと思ったが、たとえ敵であっても忠義と武勇に一目置くのが戦国武将というものなのだろう。[独自研究?]
出典
- ^ 大友宗麟養女。一説は宗像氏貞の後室を宗像才鶴に当たる女性であったが、この説の根拠は乏しい、仮説の域とされる。
- ^ 母は筑紫惟門娘
- ^ 市川元教の子。市川与七郎、宗像清兵衛。宗像大宮司職を継承し、のち細川忠興に仕え、熊本に行った。肥後宗像氏の祖[1]、[2]、[3]。
- ^ 宗像才鶴と称した。だが文禄四年(1595年)(一説には天正8年)に実家益田氏に戻った。
- ^ 一説は秋月家からの養子が宗像才鶴という人物で宗像家を継承したが、のち秋月に帰ったことにより、宗像家と宗像大宮司職は先に草刈重継、後に市川景延が受け継がせた。[4]、[5]。
- ^ 桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』 p.71
- ^ 吉永正春『筑前戦国史』宗像地方の戦い p.169~170
- ^ 許斐山城の戦い
- ^ 宗像記追考 P.574~579
- ^ 後世の史料では氏貞妹を道雪室とするが離縁された、あるいは自殺したとするものもある。離縁・自殺は誤りとすることができる。『宗像記追考』には氏貞妹の死去について、「天正十二年ノ冬カト覚エタリ、唯カリソメノ風ノ心地ニ煩ハセ玉フガ、次第ニ重セ玉テ、逝去マシ ケリ、道雪ノ御嘆大形ナラズ」とある。死去の時期は異なるが、道雪と離縁したとは書かれていない。桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』 p.233~234
- ^ [6]
- ^ “宗像才鶴は益田景祥 毛利家家臣の子と判明”. www.hitoyoshi-sharepla.com. 2024年2月22日閲覧。
- ^ 『宗像記』、『宗像記追考』には草苅重継に嫁いだ氏貞長女が死去したので、三女が後添えになったとある。桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』 p.216
- ^ 別本『宗像文書』には、姉の死後重継の室となった氏貞二女について、「母臼杵越中守鑑速女、始宗像七内元堯(実は景祥)契約、未嫁、元堯(景祥)帰益田家、故後母共来長州、姉卒去之後、幼稚子共為養育嫁重継、元和八壬戍年三月晦日於三隅卒」とある。桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』 p.255
- ^ 『宗像記』には、氏貞の長女は周防国の草刈重継の室となったが病死したので、三女が後妻となり、二女は市川与七郎の妻となったとある。桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』 p.256
- ^ [7]、[8]。
[続きの解説]
固有名詞の分類
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