その後の宗像氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 07:03 UTC 版)
氏貞の男子塩寿丸が早世していたため、宗像氏には嗣子がなかった。九州平定が成ると、筑前は小早川隆景に与えられた。宗像領は没収となり、一族や家臣らは離散。居城の蔦ケ岳城も秀吉の命で破却された。その後、毛利氏の重臣益田元祥の孫・益田元堯が氏貞の養子とされ、氏貞の娘の1人は小早川隆景の重臣草刈重継に嫁ぎ、重継は宗像氏を称した。また三女は毛利輝元家臣の市川与七郎に嫁いだ。分流に宗像氏隆もいる。
※この「その後の宗像氏」の解説は、「宗像氏貞」の解説の一部です。
「その後の宗像氏」を含む「宗像氏貞」の記事については、「宗像氏貞」の概要を参照ください。
- その後の宗像氏のページへのリンク