その後の宮本家とは? わかりやすく解説

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その後の宮本家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/02 06:22 UTC 版)

宮本三木之助」の記事における「その後の宮本家」の解説

本多宮本家その後 三木之助の殉死後、仕えていた本多忠刻10万石が没収された事もあって、これまで姫路宮本家はここで終わったとされてきた。当時殉死討死同然として跡式保証されていたが、その恩賜を隣藩明石藩引き受けたものと解釈した三木之助殉死の同じ年に明石小笠原藩武蔵2番目の養子宮本伊織藩主小笠原忠政(後の忠真)の小姓として出仕したからである(原田夢果史『真説宮本武藏葦書房)。 しかし実際に三木之助の宮本家一代で終わらなかった。前述の「宮本小兵衛先祖附」には三木之助には弟、すなわち中川志摩之助の4男・九郎太郎がおり、忠刻の小姓として兄弟仕えていたと記録している。これまで武蔵三木之助だけを養子にしていたと思われていたが、志摩之助の下2人の子引き取って育てていた。この九郎太郎三木之助の跡式相違無くというか700石を受け継ぎ、名前も三木之助を襲名して、忠刻の父本多忠政仕えていた、という事実が判明したであった。 この2代目三木之助は、忠刻の室・天樹院千姫)が忠刻との間の子勝姫伴って江戸城帰るのを忠政とともに送り途中旅館天樹院呼ばれ特別に御目見えもしている。この勝姫が後に池田光政の室となり、本多家離れた2代目三木之助の次男小兵衛を池田家召抱える由縁となった2代目三木之助は、寛永19年1642年9月大和郡山病死跡目嫡男弁之助(武蔵少年期の名前でもある)が継いだ。また次男小兵衛はこの年誕生している。それから明暦2年1656年)に弁之助が若死にする本多藩の宮本家断絶する岡山藩宮本家誕生断絶 その後小兵衛は浪人し母と姉と共に奈良移住21歳になった寛文2年1662年)に江戸で備前岡山城主・池田光政に召出され、ここに岡山藩宮本家誕生した。 「宮本小兵衛先祖附」では、小兵衛が光政勝姫に大変信頼され、常に側近くにいて献身的な勤仕をしたことを延々書き連ねている。勝姫の父圓泰院(本多忠刻)の50年忌には藩主名代として姫路書写山圓教寺香典持参使者にも立っている。本多忠刻側近三木之助に始まり本多家3代勤めたあと三木之助の甥の小兵衛が岡山移り池田光政夫妻その子綱政夫妻絶大な信頼を得続けていた。 しかし、元禄7年1694年)に嫡子小三郎を藩主御目見えさせたのを最後に記録みられず、これ以後に藩を退去し岡山宮本家断絶した考えられる

※この「その後の宮本家」の解説は、「宮本三木之助」の解説の一部です。
「その後の宮本家」を含む「宮本三木之助」の記事については、「宮本三木之助」の概要を参照ください。

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