その後の宮本家
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本多藩宮本家のその後 三木之助の殉死後、仕えていた本多忠刻の10万石が没収された事もあって、これまで姫路の宮本家はここで終わったとされてきた。当時、殉死は討死同然として跡式が保証されていたが、その恩賜を隣藩明石藩が引き受けたものと解釈した。三木之助殉死の同じ年に明石小笠原藩に武蔵の2番目の養子・宮本伊織が藩主小笠原忠政(後の忠真)の小姓として出仕したからである(原田夢果史『真説宮本武藏』葦書房)。 しかし実際には三木之助の宮本家は一代で終わらなかった。前述の「宮本小兵衛先祖附」には三木之助には弟、すなわち中川志摩之助の4男・九郎太郎がおり、忠刻の小姓として兄弟で仕えていたと記録している。これまで武蔵は三木之助だけを養子にしていたと思われていたが、志摩之助の下2人の子を引き取って育てていた。この九郎太郎が三木之助の跡式は相違無くというから700石を受け継ぎ、名前も三木之助を襲名して、忠刻の父本多忠政に仕えていた、という事実が判明したのであった。 この2代目三木之助は、忠刻の室・天樹院(千姫)が忠刻との間の子・勝姫を伴って江戸城に帰るのを忠政とともに送り、途中の旅館で天樹院に呼ばれ特別に御目見えもしている。この勝姫が後に池田光政の室となり、本多家を離れた2代目三木之助の次男・小兵衛を池田家に召抱える由縁となった。 2代目三木之助は、寛永19年(1642年)9月に大和郡山で病死。跡目は嫡男弁之助(武蔵の少年期の名前でもある)が継いだ。また次男小兵衛はこの年に誕生している。それから明暦2年(1656年)に弁之助が若死にすると本多藩の宮本家は断絶する。 岡山藩宮本家の誕生と断絶 その後、小兵衛は浪人し母と姉と共に奈良に移住。21歳になった寛文2年(1662年)に江戸で備前岡山城主・池田光政に召出され、ここに岡山藩宮本家が誕生した。 「宮本小兵衛先祖附」では、小兵衛が光政と勝姫に大変信頼され、常に側近くにいて献身的な勤仕をしたことを延々書き連ねている。勝姫の父圓泰院(本多忠刻)の50年忌には藩主名代として姫路書写山圓教寺へ香典持参の使者にも立っている。本多忠刻の側近三木之助に始まり、本多家で3代勤めたあと三木之助の甥の小兵衛が岡山へ移り、池田光政夫妻やその子綱政夫妻に絶大な信頼を得続けていた。 しかし、元禄7年(1694年)に嫡子・小三郎を藩主に御目見えさせたのを最後に記録みられず、これ以後に藩を退去し、岡山宮本家は断絶したと考えられる。
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