その後の小笠原諸島の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 07:11 UTC 版)
「スカベンジャー作戦」の記事における「その後の小笠原諸島の状況」の解説
スカベンジャー作戦の終了後、アメリカ太平洋艦隊の高速空母機動部隊は、第一高速空母任務部隊(指揮官:マーク・ミッチャー中将)と第二高速空母任務部隊(指揮官:ジョン・S・マケイン・シニア中将)に分割された。8月26日には中部太平洋方面のアメリカ艦隊司令官が、レイモンド・スプルーアンス大将(第5艦隊)からウィリアム・ハルゼー大将(第3艦隊)へ交代し、高速空母機動部隊の総称も第38任務部隊に改称した。 休養をとった第38任務部隊は、8月31日から9月2日にかけて、第4群である第38.4任務群(指揮官:ラルフ・デイヴィソン少将)を派遣して、再び小笠原諸島を攻撃した。空襲と艦砲射撃により、小笠原諸島の日本海軍航空部隊は零戦5機撃墜・8機地上撃破などの損害を受け、稼動機は水偵1機という壊滅状態となった。稼動艦艇も駆潜艇1隻・機帆船3隻に落ち込んだ。アメリカ側の損害は若干の航空機を失っただけであったが、被撃墜機の中には後に第41代大統領となるジョージ・H・W・ブッシュ中尉の乗機も含まれていた。 その後もアメリカ軍は、機動部隊やマリアナ諸島に展開したB-24爆撃機による攻撃を反復し1945年(昭和20年)2月の硫黄島の戦い直前にピークに達した。B-24は機雷敷設も行った。日本側は高速の輸送艦を多用するなどして輸送努力を続けたが、第3905船団が潜水艦に全滅させられるなど被害が続出し、小笠原諸島の日本軍は孤立化が進んだ。ただし、硫黄島以外に上陸作戦は行われないまま終戦の日を迎えた。 孤立した父島の日本軍守備隊では極度の飢餓から小笠原事件(父島事件)が発生した。 詳細は「小笠原事件」を参照
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