その後の展開<2>・移民事業崩壊期、ソ連軍の満州侵攻そして逃避行とは? わかりやすく解説

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その後の展開<2>・移民事業崩壊期、ソ連軍の満州侵攻そして逃避行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 09:52 UTC 版)

二十カ年百万戸送出計画」の記事における「その後の展開<2>・移民事業崩壊期、ソ連軍満州侵攻そして逃避行」の解説

日中戦争拡大により国家総力戦体制1938年昭和13年日中戦争拡大かつ長期化すると戦時体制下軍需産業多く労働力動員されるようになると、上記第一期移民送出計画遂行危ぶまれた。拓務省昭和13年度、昭和14年度の戸数減少させ、その代わり昭和15年度・16年度を増加させ、総数としては5年間で10万戸を達成するという修正施した。この時に満蒙開拓青少年義勇隊を毎年3万人4年送出し、計12万人送出することとされた。。しかし、その後実績は、縮小され修正計画すら達成できず、昭和15年以降は、各年度の状況見てその都度送出計画立てるという場当たり的措置をとらざるを得なくなった移民事業崩壊期である。 本格移民第一期入植計画戸数当初修正・再修正)と実績戸数年度年次当初計画(戸)修正計画(戸)再修正計画(戸)実績昭和12年1937年)度6次 6,000 6,000 6,000 5,942 昭和13年1938年)度7次 15,000 6,000 6,000 5,695 昭和14年1939年)度8次 21,000 11,000 11,000 6,945 昭和15年1940年)度9次 28,000 30,000 20,000 10,319 昭和16年1941年)度1030,000 47,000 12,000 6,710 計― 100,000 100,000 55,400 35,611 そして、1945年8月9日ソ連軍満州侵攻の日を迎える。関東軍質量ともに圧倒するソ連軍の攻勢前に潰走した。この時点における在満州国移民団員の数は約22万人であったが、そのうち現地死亡46000人、行方不明者36000人、ソ連抑留者34000人であり、どうにか日本にたどり着いた人は、22万人半数に過ぎなかった。

※この「その後の展開<2>・移民事業崩壊期、ソ連軍の満州侵攻そして逃避行」の解説は、「二十カ年百万戸送出計画」の解説の一部です。
「その後の展開<2>・移民事業崩壊期、ソ連軍の満州侵攻そして逃避行」を含む「二十カ年百万戸送出計画」の記事については、「二十カ年百万戸送出計画」の概要を参照ください。

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