その後の展開<2>・移民事業崩壊期、ソ連軍の満州侵攻そして逃避行
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「二十カ年百万戸送出計画」の記事における「その後の展開<2>・移民事業崩壊期、ソ連軍の満州侵攻そして逃避行」の解説
日中戦争の拡大により国家総力戦体制が1938年(昭和13年)日中戦争が拡大かつ長期化すると戦時体制下の軍需産業に多くの労働力が動員されるようになると、上記第一期移民送出計画の遂行が危ぶまれた。拓務省は昭和13年度、昭和14年度の戸数を減少させ、その代わり昭和15年度・16年度を増加させ、総数としては5年間で10万戸を達成するという修正を施した。この時に満蒙開拓青少年義勇隊を毎年3万人、4年間送出し、計12万人送出することとされた。。しかし、その後の実績は、縮小され修正計画すら達成できず、昭和15年度以降は、各年度の状況を見てその都度送出計画を立てるという場当たり的措置をとらざるを得なくなった。移民事業の崩壊期である。 本格移民の第一期の入植計画戸数(当初・修正・再修正)と実績戸数年度年次当初計画(戸)修正計画(戸)再修正計画(戸)実績昭和12年(1937年)度6次 6,000 6,000 6,000 5,942 昭和13年(1938年)度7次 15,000 6,000 6,000 5,695 昭和14年(1939年)度8次 21,000 11,000 11,000 6,945 昭和15年(1940年)度9次 28,000 30,000 20,000 10,319 昭和16年(1941年)度10次 30,000 47,000 12,000 6,710 計― 100,000 100,000 55,400 35,611 そして、1945年8月9日のソ連軍の満州侵攻の日を迎える。関東軍は質量ともに圧倒するソ連軍の攻勢の前に潰走した。この時点における在満州国移民団員の数は約22万人であったが、そのうち現地死亡4万6000人、行方不明者3万6000人、ソ連抑留者3万4000人であり、どうにか日本にたどり着いた人は、22万人の半数に過ぎなかった。
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