その後の工事
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「第二田沢」の完成した昭和44年、田沢疏水の西側の扇状地扇端部で「国営かんがい排水仙北平野地区」の事業が始まった。この地域は上述のように湧水が古くから農業用・飲料用に用いられてきたが、田沢疏水の開田が進むにつれて、扇状地の地下水位が上昇し、上堰・下堰掛りの各所で地下水が噴出し、農地や宅地に被害を与えるようになってきた。また、玉川を水源とした藩政期以来の7堰は、洪水のたびに流されて費用がかさみ、雄物川に近い大曲(とくに飯田)・藤木では雄物川からのポンプ取水であったが、これもまた膨大な電気料金を要した。その一方で扇端部の湧水地帯でも灌漑時に水不足が起こるなど用時の水供給に不安定性がみられ、また、ほとんどが用排水兼用の施設であるため各地で排水改良も必要になった。こうした諸懸案を一挙に解決するためにおこなわれたのが国営かんがい排水仙北平野地区事業である。「田沢疏水」「第二田沢」に平行して仙北平野幹線用水路38キロメートルが建設され、受益面積は灌漑約9,000haで排水改良を加えると約10,000haにおよぶ。受益者はすべて既存農家である。工事は昭和60年(1985年)に完成した。 一方、昭和50年代にはいると、田沢疏水の諸施設の老朽化が顕著になってきた。とくに戦時中につくられた部分は資材不足のため鉄筋の入っていない箇所が多く、随所で水路が崩壊したため全面更新が必要となってきた。そこで「国営田沢疏水農業水利」事業を昭和54年(1979年)に着工、平成元年(1989年)に更新工事を終えた。現在は、用水の安全性、確実性、速さ、公平性といった用水管理のすべてをいながらにして処理する「水管理自動化施設」が導入されている。これは、田沢、第二田沢、仙北平野の3つの幹線により、地域の水路形態がきわめて複雑化したために導入されたコンピュータ・システムである。 除毒では、玉川酸性水中和処理施設がつくられた。平成元年から試験運転が開始され、平成3年(1991年)4月から本運転を開始している。1日の石灰石の使用量は、全体で約30トンにおよぶが、その効果は絶大で、玉川や田沢湖に魚や植物がもどり、下流域の土壌の酸化を緩和している。河川構造物の酸害も減り、米の収穫増がみられるなどその影響は多方面にわたっている。また、かつては田沢湖に棲息していた固有種で、絶滅したとみられていたクニマスが平成22年(2010年)、京都大学研究チームの調査により、山梨県の西湖において現存個体群の棲息が確認された。きっかけは、京都大学の中坊徹次がタレントでイラストレーター、さらに東京海洋大学客員准教授でもあるさかなクンにクニマスのイラスト執筆を依頼し、さかなクンはイラストの参考のために日本全国から近縁種の「ヒメマス」を取り寄せたが、このとき、西湖から届いたものの中にクニマスに似た特徴をもつ個体があったため、さかなクンは中坊に「クニマスではないか」としてこの個体を見せたということに端を発している。中坊の研究グループは解剖や遺伝子解析を行ない、その結果、西湖の個体はクニマスであることが判明したとして学術論文の出版を待たずして、同年12月15日、マスメディアを通して公式に発表された。遠く離れた西湖での発見について関係者は、昭和10年(1935年)、田沢湖から西湖に送られたクニマスの受精卵10万個が孵化そたのち放流され、繁殖を繰り返して現在に至ったと推測している。 地元では「クニマス発見」のニュースに沸き、田沢湖への「里帰り」が期待されている。
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