その後の尚春
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:17 UTC 版)
三浦貞広が宇喜多氏預りとなり、牧一族も宇喜多に仕える事になった人間は多かったが尚春は宇喜多には臣従していなかったようであり、天正5年(1577年)に織田信長が羽柴秀吉の西国派遣を決めた時は中島隆重と共に中国地方の案内役を務める予定であったが、天正6年(1578年)に播磨国で三木合戦が起こったことで秀吉の西国派遣も白紙となった。 これが文書で確認できる最後の記録であり、いつ没したかなどは定かではない。
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