筑紫惟門とは? わかりやすく解説

筑紫惟門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/28 10:38 UTC 版)

 
筑紫 惟門
時代 戦国時代
生誕 享禄4年(1531年
死没 永禄10年(1567年
改名 惟門→入道良薫[1]
別名 四郎
戒名 虎岑良竜居士[2]、天徳院殿筑紫遠江守惟門仁性良龍大居士[3]
官位 左馬頭[4]右馬頭[5]下野[6]
主君 大内義隆
氏族 筑紫氏
父母 父:筑紫秀門?、筑紫正門[7]
兄弟 草野真清[8]、筑紫(大村)恒門室、惟門
馬場氏
筑紫奥門室、広門、晴門(右衛門大夫)、栄門[6][9]宗像氏貞
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筑紫 惟門(つくし これかど)は、戦国時代武将

出自

筑紫氏足利直冬の末裔とも少弐氏の庶流ともいう。筑前国肥前国にかけて勢力を築いた大身

室町戦国期の筑紫氏の系図は諸説あり、詳細不明な点が多い。

略歴

天文2年(1533年)2月、大内義隆の家臣・陶興房の筑前侵攻の際、大内氏に降伏した[10][11]

弘治3年(1557年)、大内氏が滅亡すると大友氏の影響下に置かれるが、北九州にまで勢力を及ぼしてきた毛利元就に通じ秋月文種と共に挙兵する。しかし、これは失敗に終わり、文種は自刃[12]、惟門は嫡男・広門らと共に山口へ逃走した[13]。その後、毛利家の支援の下、元の所領に帰った。

永禄2年(1559年[14](一説は永禄7年(1564年[15]4月2日(一説は5月2日[16])に大友軍と筑前侍島で交戦し、釣り野伏せのような戦術を使って、問註所鑑豊[17]、問註所鑑晴[18]、小河鑑昌[19]、佐藤刑部、星野鑑泰、犬塚尚家、田尻種廉、田尻種益、田尻種任、麦生民部大輔、麦生兵部少輔兄弟など筑後の国人衆を鉄砲で撃ち取り、大友軍を撃破した[20]

永禄10年(1567年)、高橋鑑種原田了栄秋月種実宗像氏貞らと共に挙兵し、7月11日に再び大友氏と侍島や五箇山城[21]で交戦したが[22]、大友家臣・斎藤鎮実の攻撃を受けてもまた釣り野伏せのような戦術を使って二百余の死傷を与えるものの、最終的には家督を子の広門に譲って自害した形で、7月27日に降伏の願いと人質の筑紫栄門を出して、大友軍に屈服した。

脚注

  1. ^ 『九州記』
  2. ^ 『続群書類従』・「武藤系図」、『筑前戦国史』P.31
  3. ^ [1]
  4. ^ 『歴代鎮西要略』
  5. ^ 『北肥戦誌』
  6. ^ a b 『筑紫系図』
  7. ^ 別系図によると惟門の父または兄として記されている[2]
  8. ^ 信清とも。惟門の庶兄。為草野氏養子。武家家伝 筑紫氏史跡 勝尾城筑紫氏遺跡保存管理計画書市報とす 令和7年5月号 とす新風土記〜「鳥栖市誌」を読む〜 第118回
  9. ^ 別版本の筑紫系図では惟門の祖父・秀門の養子・昭門の子として記載されたことがある。
  10. ^ 『史料綜覧』第9編之909 451頁
  11. ^ 『史料綜覧 巻九』695頁・天文2年(1533年)12月 (昭和11年(1936年)7月25日発行 編纂者:東京帝國大學文學部史料編纂所 発行所:財団法人内閣印刷局朝陽會)
  12. ^ 『史料綜覧 巻十』442頁・弘治3年(1557年)8月18日 (昭和13年(1938年)9月15日発行 編纂者:東京帝國大學文學部史料編纂所 発行所:財団法人内閣印刷局朝陽會)
  13. ^ 『史料綜覧』第9編之910 442頁
  14. ^ 『史料綜覧 巻十』472頁・永禄2年(1559年)4月2日 (昭和13年(1938年)9月15日発行 編纂者:東京帝國大學文學部史料編纂所 発行所:財団法人内閣印刷局朝陽會)
  15. ^ 『史料綜覧 巻十』588頁・永禄7年(1564年)4月2日 (昭和13年(1938年)9月15日発行 編纂者:東京帝國大學文學部史料編纂所 発行所:財団法人内閣印刷局朝陽會)。これは、おそらく問註所家譜・文書・系図・墓碑における誤記と考えられている。
  16. ^ 姓氏家系大辞典 第6巻P.6114。これもおそらく問註所家譜・文書・系図・墓碑における誤記と考えられている。
  17. ^ 問註所安芸守。永祿2年(1559年)または永祿7年(1564年)4月2日(一説は5月2日)または永禄10年(1567年)7月11日、対筑紫惟門筑前御笠郡侍島の戦いで戦死した。戒名:成德院本譽了覺大居士。
    • 筑前国侍島に於て、去る二日合戦のみぎり、親父鑑豊ならびに同名親類被官已下数十人戦死粉骨のおもむき、忠儀比類無く候、就中鑑豊事、連々頼み入り候処、かくの如きの次第、朦気賢察の前に候、併せて御名字の高名、永々忘却有るべからず候、必ず追ってこれを賀すべくの段、猶年寄共に申すべく候、恐々謹言
    卯月(4月)七日(永祿七年) 問註所刑部大輔殿へ(鎮連)『筑後戦国史』P.43~44、『福岡県史資料 第10輯 問註所文書』P.320、 武家家伝 問註所氏 『筑後国史 中巻』P.312~314、『筑後名鑑 三瀦・八女之巻』P.94~95、姓氏家系大辞典 第6巻P.6114、浮羽郡人物名鑑 : 郡制廃止記念P.24~26。
    • 大友義鎮は永禄5年(1562年)に剃髪した以降、文書の署名および花押を「宗麟」と改めている。したがって、本書状の内容に見られる「義鎮」期の署名および花押の様式から判断すると、永禄7年ではなく永禄2年のものとみるのが妥当である。「永禄7年」、「5月2日」、「永禄10年(1567年)7月11日」とする説は、問註所家譜・文書・系図・墓碑などの誤記によって生じたものと考えられる。
    • また、「天正六年戊寅(1578年)3月1日(または11日)卒」および「戒名:脊梁院殿章窓圭文大禅定門」は、鑑豊の父・加賀守親照のこと。「天正二年甲戌(1574年)6月8日卒」および「戒名:勝楽寺殿松巖善聴大居士」は、鑑豊の子・刑部少(大)輔入道善聴鎮連のこと。
  18. ^ 鑑豊の従兄弟。町野大学助鑑成。『筑後名鑑 三瀦・八女之巻』P.94
  19. ^ 筑後竹野郡代。小河新右衛門、中務大輔。
    • 於今度侍島合戦之砌、親父中務大輔戦死、其外被官之者共数人屆之由候、誠忠貞無比類候、仍鑑昌一期之事、任相續之旨、領掌不可有相違候、恐々謹言、卯月十六日、小河六郎(鎮昌)殿、義鎮判。
    『福岡県史資料 第10輯 小河文書』p.341、小川区有中世文書P.12、『筑後国史 中巻』P.143~144
  20. ^ 『史料綜覧』第9編之910 472頁、588頁
  21. ^ 別名は一ノ岳城、一嶽城。現福岡県那珂川市五ケ山。
  22. ^ 『史料綜覧 巻十』660頁・永禄10年(1567年)7月11日 (昭和13年(1938年)9月15日発行 編纂者:東京帝國大學文學部史料編纂所 発行所:財団法人内閣印刷局朝陽會)

出典

  • 寛政重修諸家譜
  • 『九州記』
  • 『歴代鎮西要略』
  • 『北肥戦誌』(筑前国侍嶋軍之事)
  • 『筑紫系図』
  • 『肥陽軍記』
  • 『大友記』(元就武略調サル事)




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