大内義隆の時代とは? わかりやすく解説

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大内義隆の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/26 04:39 UTC 版)

陶興房」の記事における「大内義隆の時代」の解説

享禄元年1528年12月の義興の死後は、その嫡子大内義隆仕えた大内家では当主交代の際に常に一族家臣団による権力闘争発生していたが、義隆の時には興房の補佐並びに徳望により、この手争い起こらず平和裏当主交代が行なわれている。 義隆時代初期北九州方面への勢力拡大が行なわれ、北九州任されていた杉興運享禄3年1530年8月田手畷の戦い少弐氏大敗したため、天文元年1532年11月大軍率いて長門から九州渡海し、大友義鑑少弐資元らと対峙した。この興房率い大内軍には杉興運仁保隆重、秋月氏菊池氏九州千葉氏原田氏など北九州主だった将が従った。しかし少弐資元家臣筑紫惟門勝尾城強く抵抗し大友義鑑筑前侵攻し星野親忠を降伏させるなど苦戦続いたこのため天文2年1533年2月には義隆より興房の従兄弟である陶隆康援軍として派遣され援軍得た興房は大攻勢転じて肥前三根郡少弐資元破り追撃し、さらに大友方の筑前柑子岳城(現在の福岡市西区)を落とし大友方の本拠である豊後侵攻した。この興房の大攻勢結果大内軍の優勢確立し天文2年1533年12月には筑紫惟門降伏した。また天文3年1534年4月6日豊後勢場ヶ原の戦い大友方の吉弘氏直、寒田親将らを討って大勝し大友家豊後圧力加えた。しかし勝利乗じて7月肥前三津山現在の佐賀県神埼郡)に在陣して龍造寺家兼佐賀城攻めようとしたが、龍造寺軍の逆襲にあって敗北している。とはいえ興房の優位揺るがず、10月には少弐資元追い詰めた上で懐柔図った。興房は龍造寺家兼使者送って資元の隠居少弐冬尚への東肥前国安堵を条件とした仲介依頼する大友義鑑とも和睦図り天文4年1535年)に大内家優位のまま和睦成立し、興房は山口帰還した天文5年1536年)には義隆の命令再度肥前侵攻し多久城を包囲し9月少弐資元自刃させ、少弐氏一時滅亡へ追いやった。 天文8年1539年4月18日死去享年65次男陶隆房陶晴賢)が家督継いだ生前譲ってたとする説もある。

※この「大内義隆の時代」の解説は、「陶興房」の解説の一部です。
「大内義隆の時代」を含む「陶興房」の記事については、「陶興房」の概要を参照ください。

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