大内義長の最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 10:20 UTC 版)
義長と隆世の軍勢のみとなった大内軍は、厳島の戦いの後に築城が始められたばかりで未完成の高嶺城に籠城し高嶺城の南の守りとなる支城・姫山城には宍道隆慶が入っていた。しかし、先の4日に行われた杉重輔と内藤隆世による戦いで山口の町は焦土と化しており、そこへ元就に与した吉見正頼も阿武郡渡川の野上房忠勢2000を排除して宮野口へと迫っていた。京都同様に防衛には向いていない山口を放棄した義長・隆世らは長門豊浦郡(下関市)の且山城(勝山城)へ逃亡した。その情報は、15日には毛利本陣に報告された。 毛利軍は山口へ侵攻し、姫山城の宍道勢は降伏。毛利本隊は山口の占領に動き、大内義長追討は福原貞俊に5,000の軍勢を預けて一任する。そして、大内義長の実家である大友氏の援軍を阻止するために、陸路で1,000余騎を下関へ向かわせ、さらに長門の周防灘から関門海峡にかけてと豊前一帯を、乃美宗勝を主力とする毛利水軍や村上水軍を派遣して、海上封鎖を行った。なお、前年(1556年)のものと思われる11月19日付けの元就の書状で、堀立直正が赤間関(下関の古名)の要害を攻略したことを賞しており、義長らの退路は早い段階で断たれていた。また、毛利軍に呼応して山口へ入った吉見正頼の功を称えた元就は、3月22日に宴を催したとされる。 義長が立て籠もった且山城は堅城であり、城を包囲した福原勢の城攻めは難航した。そこで元就は福原貞俊に策を預け、「陶晴賢に荷担した謀反人である隆世を許すわけにはいかないが、陶の傀儡であった義長には遺恨は無いので助命して大友氏に送り返す」と勧告する矢文を入れた。反対する義長を説得してこれを受け入れた隆世は4月2日に自刃し、義長は開城した且山城を出て長福院(功山寺)に入った。しかし、翌3日に福原勢は長福院を包囲して義長に自刃を迫った。謀られた義長であったが、最早どうすることもできずに自害した。陶晴賢亡き後を支えた陶氏の忠臣・野上房忠も長房の嫡子・鶴寿丸を殺害の後に自害した。 辞世の句大内義長「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」 野上房忠「生死を断じ去って 寂寞として声なし 法海風潔く 真如月明らかなり」 これにより大内氏と陶氏の正当なる後継者は絶え、元就による防長経略は完了した。元就は、4月23日に防府を発って吉田郡山城へ凱旋した。
※この「大内義長の最期」の解説は、「防長経略」の解説の一部です。
「大内義長の最期」を含む「防長経略」の記事については、「防長経略」の概要を参照ください。
- 大内義長の最期のページへのリンク