大内義興により誅殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/03 02:48 UTC 版)
1494年(明応3年)に病態の政弘が義興に家督を譲ったあとは、若年の君主を補佐した。しかし翌年、義興への家督相続に際して兄弟の高弘の擁立を画策したと陶弘護の子武護が義興に讒言し、それを信じた義興の命により、弘矩は大内氏館にて暗殺された。嫡男の弘和はそれを知って挙兵をしたものの、攻め滅ぼされた。 のちに弘矩が無実であることが判明したため、義興は弘矩の娘を正室に迎えるとともに、弘矩の死後家督を継いだ弘春の嫡子興盛に弘矩の娘をめあわさせるなど、弘矩の名誉回復と内藤氏との関係修復に腐心した。讒言した武護は死を賜った。ただし、弘矩の死には異説もある(後述)。 義興に嫁いだ娘は、義興の嫡男亀童丸(のちの大内義隆)を産んでいる。
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