大内氏重臣として活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/26 03:32 UTC 版)
天文20年(1551年)、晴賢が大内義隆に謀反を起こす。益田氏と陶氏は姻戚関係(晴賢の祖母が藤兼の高祖父・益田兼堯の娘)であったため、晴賢の謀反に協力し義隆を自害に追い込んだ(大寧寺の変)。藤兼は当時石見にあり、吉見氏の所領に侵攻したが、逆襲を受け退却している。そして相良武任の子の虎王を石見で捕らえ殺害している。その後、晴賢が擁立した義隆の甥・大内義長に外交手腕を評価され重用された。 天文20年から24年(1555年)にかけて藤兼は吉見領に侵攻しているが、吉見正頼率いる吉見勢も頑強な抵抗を見せる。天文23年(1554年)、大内氏の大軍が三本松城を攻撃し、三本松城の戦いが開始される。大内軍は三本松城を落とすことができず、最終的には吉見正頼との講和が成立する。同年、晴賢の命令で尼子晴久との同盟を締結した。 しかし、天文24年の厳島の戦いで、毛利元就の奇策により晴賢が厳島にて討死。晴賢の側で多くの功績を収めてきた藤兼は、大内義長と共に毛利元就の最大の標的となったのである。
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