大内氏の救援
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 01:27 UTC 版)
11月9日、尼子氏の支援によって佐東銀山城に戻っていた武田信実が、毛利軍の背後を突こうとするが、般若坂にて国司元相勢によって撃退される。その後も、随所で毛利軍と尼子軍の小競り合いはあったものの、戦況に影響を与えるような合戦は発生しなかった。 一方、元就より救援を求められていた大内義隆であったが、救援軍を出陣させたのは11月26日と言われている。しかし、実際には前述の通り、頭崎城攻めのため既に防府に出陣しており、尼子軍の侵攻に対して杉隆相を早々に毛利への後詰めとしている。また、義隆自身も岩国に本陣を移し、大内軍主力を率いる陶隆房は9月4日に厳島神社にて戦勝祈願を行った後、翌日には安芸海田(広島市)に上陸した。隆房は、まず杉隆相が抜けた頭崎城攻めの陣営に加わり、その後に、内藤興盛らと共に10,000の軍勢を率いて吉田郡山城救援に向かった。 これに対して、武田信実・牛尾幸清以下3,000余りが陶軍を迎え撃ち、大内軍援兵の合流を遅延させている。 12月3日、吉田郡山城の東側にある山田中山(旧甲田町)に到着。両軍を見下ろせる住吉山に幟・旗印を立てて陣太鼓を打ち鳴らし、籠城する毛利の将兵を鼓舞したとされる。元就は陶隆房に謝意を述べて丁重にもてなし、年明けを待って尼子軍に総攻撃をかけることで一致した。
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