大内氏の内部崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 10:20 UTC 版)
元就による周防侵攻が進んでいた頃、大内氏の家臣団の内部崩壊も進んでいた。陶氏の本拠である富田若山城は、陶晴賢の嫡男である長房が弟・貞明らと共に籠もっており、厳島から脱出した石見国守護代の問田隆盛も滞留していた。しかし、大寧寺の変後に晴賢に討たれた豊前国守護代杉重矩の遺児・杉重輔が襲撃する。重輔の挙兵は毛利と通じていたとも言われ、この戦いも毛利軍による攻略とする場合もある。長房らは、防ぎきれずに城を捨てて龍文寺に逃亡して3月2日に自害した。(杉軍による襲撃と長房の死は、厳島の戦い直後の1555年10月とする説もある。) 一説によると、若山城を捨て要害である龍文寺に立て篭もった長房を破るために氏神の周方大明神の祭事である念仏踊りに紛れて寺に侵入して内から攻め滅ぼしたと伝えられる。これが、龍文寺に伝わる山口県指定無形民俗文化財の長穂念仏踊の由来とされ、この伝承によれば要害である龍文寺に立て籠もった陶軍は門前の沼辺に櫓・塀を築き、橋を落すなどして防備を固め、籠城は数ヶ月に及んだと言われる。 父親の敵である陶氏を討ち滅ぼした重輔であったが、これに怒った内藤隆世が重輔の討伐に動く。義長はこれを仲裁して止めようとするも失敗し、両者の軍勢は山口後河原で戦いとなる。この戦いで山口の街は焼かれ、敗れた重輔が防府にて討たれたのは3月4日であった。 3月8日に陶氏遺臣が残る富田若山城を攻略した毛利軍は、12日には富田若山城を出発して山陽道の浮野峠より防府に進軍した。防府の天神山には、松崎天満宮(防府天満宮)に鷲頭隆政と朝倉弘房が率いる大内軍2,000が駐屯していたが、毛利軍の大軍により壊滅する。この時の毛利軍は兵2万に及び、情勢不利により山口へ撤退しようとしていた鷲頭・朝倉勢を佐波川周辺で撃ち破ったとされる。一方、右田ヶ岳城の右田隆量や野田長房らは元就の勧告に応じて降伏した。この降伏は、元就が富田若山城に入城した後に送った書状によるとも、鷲頭・朝倉勢の敗北後に毛利軍が迫ってからの降参とも言われる。右田ヶ岳城には南方就正が城番として入り、毛利軍に降った右田隆量は、山口攻めの先鋒として氷上山の砦を落とすなど戦功を上げている。防府を制圧した元就は、松崎天満宮の大専坊に本陣を移して山口総攻撃の指揮を執ることとした。
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