右田ヶ岳城とは? わかりやすく解説

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右田ヶ岳城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 03:27 UTC 版)

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右田ヶ岳城
山口県
右田ヶ岳城遠景
別名 右田ヶ嶽城、右田城、右田岳城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 右田氏
築城年 鎌倉時代末期
主な城主 右田氏南方就正
廃城年 不明(安土桃山時代末期?)
指定文化財 史跡等未指定[1]
位置 北緯34度05分11.5秒 東経131度33分25.0秒 / 北緯34.086528度 東経131.556944度 / 34.086528; 131.556944座標: 北緯34度05分11.5秒 東経131度33分25.0秒 / 北緯34.086528度 東経131.556944度 / 34.086528; 131.556944
地図
右田ヶ岳城
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右田ヶ岳城(みぎたがたけじょう)は、周防国佐波郡右田(山口県防府市)にあった日本の城山城)。

概要

右田ヶ岳

右田ヶ岳の山頂に築城されており、頂上は東・中・西の3つに分かれている城。西部に本丸があり、その東下に二の丸がある。大内氏の本拠・山口防衛の要衝であり、急峻な右田ヶ岳により天然の要害となっていた。

沿革

鎌倉時代末期に、大内氏の庶流・右田氏が築城し、代々在城した。

天文24年(1555年)に、陶晴賢厳島の戦いで討死し、同年より毛利氏が周防・長門国への侵攻を開始した(防長経略)。その際に城主であった右田隆量は、野田長房と共に籠城したが、毛利元就の勧告に従い降伏して、毛利氏に仕えた。

後に毛利氏家臣の南方就正が城番として入城し、永禄12年(1569年)の大内輝弘の山口乱入(大内輝弘の乱)では、就正がこの城より出撃し、輝弘を撃退した。

その後の歴史は不明だが、江戸時代初期には廃城となっていた。

脚注

  1. ^ 「防府の文化財」防府市公式HP

関連項目

外部リンク


右田ヶ岳城

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右田ヶ岳」の記事における「右田ヶ岳城」の解説

詳細は「右田ヶ岳城」を参照 この右田ヶ岳には、戦国時代大内氏、後に毛利氏拠点となった右田ヶ岳城が存在し現在の頂上部は城の本丸部分である。

※この「右田ヶ岳城」の解説は、「右田ヶ岳」の解説の一部です。
「右田ヶ岳城」を含む「右田ヶ岳」の記事については、「右田ヶ岳」の概要を参照ください。

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