大内輝弘の最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 05:30 UTC 版)
10月25日、輝弘の手勢は800となり、上陸地である秋穂浦へと撤退する。しかし、すでに軍船はなく(毛利軍による襲撃、もしくは大友水軍の帰国)、輝弘は東へと向かった。その途中で、南方就正率いる防府の右田ヶ岳城の城兵にも攻撃されて敗走。三田尻でも船はなく、浮野峠を越えて佐波郡富海まで逃げてきた。 しかし、この先の椿峠には杉元相や由宇正覚寺別当の周音らの手勢が集まってきており、従う兵が100人に過ぎなかった輝弘はこの方面への撤退を諦めて浮野峠の茶臼山に引き返した。後方からは吉川元春率いる毛利軍主力が迫ったため、最期の一戦を試みるが衆寡敵せず壊滅。輝弘の自刃で乱は終結した。自刃した輝弘らの首級は福間元明によって挙げられて長府まで送られ、元就の本陣で首実検が行われた後に埋められたと言われている(豊後塚)。 なお、騒乱が鎮圧された直後、旧大内家臣の吉田興種・武種父子は輝弘への内通を疑われて討たれている。
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