大内道頓の乱の鎮圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 13:58 UTC 版)
文明2年(1470年)に正式に周防守護代に任じられる。同年、政弘が西軍方として京都に滞陣中、政弘の叔父教幸(道頓)が東軍方の誘いに応じて内藤武盛・吉見信頼らと共に留守中の周防で反乱(大内道頓の乱)を起こした。留守居役の弘護は当初は教幸を迎え入れる態度を示していたが、同年12月になって一転して教幸を攻め、周防玖珂郡で教幸を撃ち破り、さらに吉見信頼を頼って再起を図る教幸を長門阿武郡の各地(渡川城、賀年城、元山城、江良城など)でも吉見勢を破っている。そして、政弘の命で急遽帰国した益田貞兼と共に長門豊浦郡でも教幸方を討って追撃を続け、翌3年(1471年)には教幸を没落に追い込んだ。これは、当初から教幸を油断させて時間を稼ぐための罠であったとみられている。
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