益田貞兼とは? わかりやすく解説

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益田貞兼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/22 13:52 UTC 版)

 
益田貞兼
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 大永6年7月20日[1][2]1526年9月6日
改名 貞兼、(法名)全田[1][2]
別名 (通称)又次郎[1][2]
官位 越中[1][2]治部少輔[1][2]
主君 大内政弘義興
氏族 益田氏
父母 父:益田兼堯[1][2]、母:吉山氏[2]
兄弟 貞兼、男子[2]、男子[2]、妹(陶弘護室)[2]、女子(益田兼治室)[2]、女子[2]、女子(吉見俊家室)[2]、兼久[2]
宗兼[1][2]、徳祐[2]、宇野興兼[2]、兼勝[2]

益田 貞兼(ますた さだかね)は戦国時代武将。戦国大名大内氏の家臣。益田氏第16代。

生涯

石見国の国人。寛正2年(1461年)に父益田兼堯から家督を譲られ、以降大内政弘に仕える。応仁の乱に際しては政弘に従って上洛し、細川勝元軍と交戦して武功を挙げ、足利義視から太刀と鎧を与えられた。

文明2年(1470年)、周防国において大内教幸が反乱を起こす(大内道頓の乱)。石見の有力国人吉見信頼も反乱に加担したため、政弘の命令で石見に帰国し、陶弘護と協力して反乱を鎮圧した。この功績を受けて政弘より周防・長門などに所領を新たに加増され、益田氏の全盛期を創出する。文明11年(1479年)には9代将軍足利義尚の接待を受けている。

文明15年(1483年)、嫡男の宗兼に家督を譲って隠居したが、引き続き大内家の重鎮として政務に参画した。大永6年(1526年)7月20日に死去。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 今井尭ほか編 1984, p. 346.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 田村哲夫編修 1980, p. 99.

参考文献




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