大内軍の攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 01:27 UTC 版)
一方、尼子軍主力の動きを警戒していた大内軍であるが、宮崎長尾を援護する動きが尼子軍に無いことを知って、青光山への襲撃を企てる。天神山のすぐ南にある青光山の正面には多くの尼子兵がいるため、天神山の南に下って尼子本陣に直接向かうのではなく、密かに郡山の山陰を東進して江の川を渡り、尼子の布陣を大きく南に迂回した。青光山の南側で江の川を再び渡河して北上、尼子本陣の背後から奇襲を仕掛けた。尼子本陣は大混乱に陥り、詮久も危うくなるほどだったと伝えられる。『老翁物語』によれば尼子久幸が「臆病野州の最期を見よ」と言って手勢500を率いて防戦に当たり、青光山の中腹にて尼子・大内両軍は激戦を繰り広げたとされる。奮戦する久幸であったが、物見に来ていた毛利家臣の中原善左衛門が放った矢を額に受けて落馬し、ついに討死した。しかし、決死の久幸隊が時間を稼いでいる間に、山麓に分散していた尼子各隊の軍勢が到着して戦いは一進一退となり、勝敗の定まらないまま夕暮れとなった。『吉田物語』では戦死者数を尼子軍400人・大内軍470人としている。
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