宮崎長尾の戦い
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12月11日、宍戸勢を含めた毛利軍は、吉田郡山城の西に位置する宮崎長尾(旧吉田町相合)にある尼子方の陣を襲撃。 毛利軍は、年を越した天文10年(1541年)1月3日にも相合口の尼子軍を襲い、参戦した小早川興景勢から20名ほどの負傷者を出しつつも、尼子兵10数名を討ち取った。6日にも再び尼子軍の陣地に迫って火を放つなどしている。 1月11日、大内軍は山田中山の陣を撤去して吉田郡山城から西に尾根伝いである天神山に本陣を移し、青光山の尼子陣営の真正面に対峙した。尼子軍は大内軍を牽制しようとしたが、大内軍の陣替えは阻止できなかった。翌日、元就は天神山の大内本陣へ児玉就忠を使者として使わし、宮崎長尾に陣取る高尾久友・黒正久澄・吉川興経に対して総攻撃をかける計画を伝える。そして、毛利軍の動きに対抗して尼子軍主力が吉田郡山城に攻め寄せる恐れがあったため、尼子本隊を大内軍で牽制して欲しいと隆房に要請。これに対して隆房は、末富志摩守を吉田郡山城に派遣して了承の旨を伝えた。志摩守は元就と軍議をした後に帰陣している。 毛利軍の攻撃 1月13日の早朝、城外の小早川興景・宍戸元源らと呼応した毛利軍総勢3,000が、ついに宮崎長尾の尼子陣に攻撃を開始する。この時、元就次男の少輔次郎(後の吉川元春)が初陣を果たしている。毛利方はほぼ全軍を投入する戦いであったため、百姓や女子供を守備兵に見せかけて城の随所に立たせ、守りが堅固であるように見せかけた。尼子方の先鋒であった高尾隊2,000は必死に防戦するが、久友は討ち死にして軍勢は敗走。続いて、第二陣の黒正隊1,500の兵も壊滅して久澄は逃亡した。しかし、第三陣で待ち構える吉川興経は精鋭1,000の手勢で奮戦し、毛利軍に猛反撃を加えた。戦いは日没まで及ぶが毛利軍は突破できず、元就は兵を撤退させた。毛利軍は、高尾久友や三沢蔵人など200余名を討つ戦果をあげて城に凱旋した。 大内軍の攻撃 一方、尼子軍主力の動きを警戒していた大内軍であるが、宮崎長尾を援護する動きが尼子軍に無いことを知って、青光山への襲撃を企てる。天神山のすぐ南にある青光山の正面には多くの尼子兵がいるため、天神山の南に下って尼子本陣に直接向かうのではなく、密かに郡山の山陰を東進して江の川を渡り、尼子の布陣を大きく南に迂回した。青光山の南側で江の川を再び渡河して北上、尼子本陣の背後から奇襲を仕掛けた。尼子本陣は大混乱に陥り、詮久も危うくなるほどだったと伝えられる。『老翁物語』によれば尼子久幸が「臆病野州の最期を見よ」と言って手勢500を率いて防戦に当たり、青光山の中腹にて尼子・大内両軍は激戦を繰り広げたとされる。奮戦する久幸であったが、物見に来ていた毛利家臣の中原善左衛門が放った矢を額に受けて落馬し、ついに討死した。しかし、決死の久幸隊が時間を稼いでいる間に、山麓に分散していた尼子各隊の軍勢が到着して戦いは一進一退となり、勝敗の定まらないまま夕暮れとなった。『吉田物語』では戦死者数を尼子軍400人・大内軍470人としている。
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