宮崎長尾の戦いとは? わかりやすく解説

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宮崎長尾の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 01:27 UTC 版)

吉田郡山城の戦い」の記事における「宮崎長尾の戦い」の解説

12月11日宍戸勢を含めた毛利軍は、吉田郡山城の西に位置する宮崎長尾(旧吉田町相合)にある尼子方の陣を襲撃毛利軍は、年を越した天文10年1541年1月3日にも相合口の尼子軍襲い参戦した小早川興景勢から20名ほどの負傷者出しつつも、尼子10数名討ち取った6日にも再び尼子軍陣地迫って火を放つなどしている。 1月11日大内軍は山田中山の陣を撤去して吉田郡山城から西に尾根伝いである天神山本陣移し、青光山尼子陣営真正面対峙した。尼子軍大内軍を牽制しようとしたが、大内軍の陣替え阻止できなかった。翌日元就天神山大内本陣児玉就忠使者として使わし、宮崎長尾陣取る高尾久友・黒正久澄・吉川興経に対して総攻撃をかける計画伝える。そして、毛利軍動き対抗して尼子軍主力吉田郡山城攻め寄せる恐れがあったため、尼子本隊大内軍で牽制して欲しいと隆房に要請。これに対して隆房は、末富志摩守を吉田郡山城派遣して了承の旨を伝えた志摩守は元就軍議をした後に帰陣している。 毛利軍の攻撃 1月13日早朝城外小早川興景宍戸元源らと呼応した毛利軍総勢3,000が、ついに宮崎長尾尼子陣に攻撃開始する。この時、元就次男少輔次郎(後の吉川元春)が初陣果たしている。毛利方はほぼ全軍投入する戦いであったため、百姓女子供守備兵見せかけて城の随所に立たせ、守り堅固あるよう見せかけた。尼子方の先鋒であった高尾隊2,000必死に防戦するが、久友は討ち死にし軍勢敗走続いて第二陣の黒正隊1,500の兵も壊滅して久澄は逃亡した。しかし、第三陣で待ち構える吉川興経精鋭1,000の手勢で奮戦し毛利軍猛反撃加えた戦い日没まで及ぶが毛利軍突破できず、元就は兵を撤退させた。毛利軍は、高尾久友や三沢蔵人など200余名を討つ戦果をあげて城に凱旋した大内軍の攻撃 一方尼子軍主力動き警戒していた大内軍であるが、宮崎長尾援護する動き尼子軍に無いことを知って、青光山への襲撃企てる天神山のすぐ南にある青光山正面には多く尼子兵がいるため、天神山の南に下って尼子本陣直接向かうのではなく密かに郡山山陰東進して江の川渡り尼子布陣大きく南に迂回した。青光山南側江の川を再び渡河して北上尼子本陣背後から奇襲仕掛けた尼子本陣大混乱に陥り、詮久も危うくなるほどだったと伝えられる。『老翁物語によれば尼子久幸が「臆病野州最期見よと言って手勢500率いて防戦に当たり、青光山中腹にて尼子大内両軍激戦繰り広げたとされる奮戦する久幸であったが、物見来ていた毛利家臣の中原善左衛門放った矢を額に受けて落馬し、ついに討死した。しかし、決死の久幸隊が時間稼いでいる間に、山麓分散していた尼子各隊軍勢到着して戦い一進一退となり、勝敗定まらないまま夕暮れとなった。『吉田物語』では戦死者数尼子軍400人・大内軍470人としている。

※この「宮崎長尾の戦い」の解説は、「吉田郡山城の戦い」の解説の一部です。
「宮崎長尾の戦い」を含む「吉田郡山城の戦い」の記事については、「吉田郡山城の戦い」の概要を参照ください。

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