元就期
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備後国芦田郡久佐の朝山二子城(楢崎城)を本拠とした国人である楢崎通景の子として生まれる。毛利氏に帰属した後は毛利元就、隆元、輝元の三代に仕えて各地を転戦し、生涯で17通の感状を与えられたという。 永禄元年(1558年)5月、小笠原長雄の拠る石見国邑智郡河本の温湯城攻めにおいて、豊景は嫡子・信景と共に小早川隆景の軍に属し、尼子晴久の援軍を防いだ。 永禄5年(1562年)7月から始まる出雲攻めに信景と共に従軍。永禄6年(1563年)8月の出雲国意宇郡馬潟原における馬潟原の戦いでは、尼子軍の川副久盛と馬田木工允が数百騎を率いて小早川隆景の旗本へ打ちかかったところを、長元信と共に300余騎を率いて横撃し、馬田木工允を組討で討ち取った。この功により元就から感状を与えられた。
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元就期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/05 17:56 UTC 版)
備後国芦田郡久佐の朝山二子城(楢崎城)を本拠とした国人である楢崎豊景の子として生まれる。 楢崎氏が毛利氏に帰属した後は毛利元就、隆元、輝元の三代に仕えて各地を転戦した。 天文9年(1540年)から天文10年(1541年)にかけての吉田郡山城の戦いでは毛利方として戦い、天文10年(1541年)1月13日の宮崎長尾の戦いにおいて尼子軍の敵兵の首一つを討ち取る武功を挙げる。 天文24年(1555年)から始まる元就の防長経略に信景も従軍。弘治3年(1557年)3月に大内義長が長門国長府の且山城へ逃れた際、福原貞俊や桂元澄がその追撃にあたったが、元就は信景と熊谷信直を呼び出して、貞俊に協力するよう頼んだ。 永禄元年(1558年)5月、小笠原長雄の拠る石見国邑智郡河本の温湯城攻めにおいて、信景は父・豊景と共に小早川隆景の軍に属し、尼子晴久の援軍を防いだ。永禄4年(1561年)2月28日、毛利隆元から周防国玖珂郡の山代にて50貫の地を与えられる。 永禄5年(1562年)7月から始まる出雲攻めに父と共に従軍し、永禄6年(1563年)8月の出雲国意宇郡馬潟原における馬潟原の戦いで尼子軍と戦った。永禄8年(1565年)4月17日、毛利軍は月山富田城への総攻撃を開始。信景は元就の軍に属して月山富田城正面の尾小森口で尼子軍と戦い、武功を立てる。しかし尼子軍の善戦によって城を落とすことは出来ず、4月28日に毛利軍は洗骸城へ一時退いた。この時に尼子軍は毛利軍を追撃したが、小早川隆景の軍が殿を務め、信景もこの時武功を立てた。 永禄9年(1566年)8月23日、信景は元就から再度出雲への出陣を要請され、9月からの月山富田城攻めに参加した。また、永禄12年(1569年)の立花城の戦いにも従軍。同年5月18日の多々良浜の戦いでは大友氏の戸次鑑連(立花道雪)らが宍戸隆家、山内隆通、多賀山通定、楢崎信景、椋梨弘平らの陣を襲撃したが、この戦いにおいて毛利氏の鉄砲隊が活躍し、信景の陣においては宇多田藤右衛門らが活躍した。信景も武功を挙げ、感状を与えられている。
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元就期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/01 02:48 UTC 版)
毛利氏の重臣である口羽通良の次男として生まれる。 まだ幼名の「才徳丸」を名乗っていた弘治2年(1556年)10月2日、毛利元就と毛利隆元から石見国邑智郡都賀西350貫の地を給地として与えられた。 永禄9年(1566年)閏8月15日、春良の愁訴を承認した元就は井上就重を春良のもとへ派遣し、出雲国島根郡東郷の内の100貫の地を与えることを約束。翌永禄10年(1567年)12月25日に同所を輝元から与えられる。
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